ぼくの創作で取り上げるテーマやネタというのは、ほぼ全てが後ろ向きで、退廃的です。
まあ、それは当たり前のことなのでして。
だって、幸せなら、それをわざわざ言語化する必要はありませんからね。
ネガティブな感情だからこそ、自分の言葉で吐き出そうという気になる。
後ろ向きなテーマこそ、創作の原動力である。
自分の力で自分の状態を言語化すると言うのは、あまりにもやるまでが面倒くさく、やったらやったで非常に辛く苦しい作業なのです。
自分以外の誰も、答えを提示してくれないわけですから。
テンサイでもなんでもないってのに、自分の中の僅かなボキャブラリーやらなんやらの中から、今の自分の状態にうまく感覚的にばっちりはまるものを手あたり次第探し出さなければならないわけです。
そんな血を吐いて苦しみながらやらなければならないような作業を、わざわざやる為には、あるいはやらずにはいられないくらいの状態になる為は、それ相応のエネルギーが必要になるわけです。
そこまでのエネルギーを手っ取り早く湧かせる手段なんて、ぼくにとってはネガティブな感情以外にはそうそうありませんて。
まあそりゃあ、心にひろーい余裕のある方なら、ある時ふと、その余力で幸せを言語化する気になることもあるでしょうが。
ぼくのような綱渡り(いろんな意味で)で、せかせかしてて、生きるだけで手いっぱいでキャパオーバー(爆)の人間には、そんな余力が無いのです。
だから、日常でしばしば感じる後ろ向きなアレを取り上げた創作した出来ねえわけなのであります。
けれど、ぼく自身は、このような状況にある自分を、けっこう好いています。
かねてより愛してやまない、退廃的な作品を創ることができる今の自分が、気に入っているのです。
ううん、そうですね、できるだけ長く、こういう生き方を続けたいものです。
たぶん、早死にするでしょうけれど。
けれどせめて、親よりは長く生きられるように、まあまあ加減はします。しなきゃ、地面の中で静かに眠れない。
あの親、おまえが自分より早く死ぬのは許さねえって、まじで、まあじでうるっせえからねえ。
第一ぼくは、自分が異端だと、化け物だと知りながらのうのうと生きている時点で、自分が人間としてどこか破綻していると知りながらのうのうと生きている時点で、ある意味サイコパスなんですからねえ。
ぼくがあんたらを選んだんじゃない。あんたらが勝手にぼくを産んだんだろう。ぼくが発生するかしないかのそのとき、この世で唯一、ぼくにだけそれを選択する権限がなかったわけだ。しかも、それに対して最終的に責任を取るのは両親では無くぼくなのである。こんな理不尽な話が他にあるかい。
あんたらこそ好き勝手に生きたんだから、ぼくに好き勝手に死ぬなとは絶対に言わせない。好きに死なせろってのよ。
補足(2025年8月24日深夜):この文章は、まだ私がこのサイトの前身の前身であるブログすら立ち上げていないころに書いた、本当に自分のためだけの日記です。当時はまだ自分のセクシュアリティを受け容れきれていなかったので、一人称が未だぼく(現在は私)になっています。すでに私の最近の文章も読んでくださった方には、文章そのものの内容だけでなく、このような現在の私との相違、当時から現在に至るまでの私の変化も楽しんでいただけたらと思います。