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People, Things, and Affairs at the Dawn of Time / Miscellaneous notes of masamune kitano…
黎明期のヒト・モノ・コト
随時更新中…
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黎明期のヒト・モノ・コト
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不二家のお店にはほとんど行ったことがないけれど、それでもなぜか昔から好きだったのが、頭を撫でると頭がゆらゆら揺れるペコちゃん人形。特別”ペコちゃんが大好き!!!”というわけでもなくて、”普通に好き!”程度なのですが…ああ、でも、無邪気なペコちゃんが出てくる昔の不二家のCMは大好きだなあ…それに、自分の好きな女装家のキャンディ・H・ミルキィさんも、キャンディ・キャンディマニアになる前はペコちゃんマニアだったらしいし…って、結局大好きなんじゃないか。そんなペコちゃんの中でも、私は人形がいちばん好きなのです。
小学生の頃からほしい、ほしいと思っていたのを、ことしの春についにお出迎え。お店の等身大のものとは異なり卓上サイズですが、それでもちゃんと、頭がゆらゆらゆれるのです。現在は手作りの白いマフラー(本当はシュシュなんだけれど、シュシュとして使う機会も無いので)を着せて、作業机の、私が座るすぐ眼の前に置いてあります。
もうすっかり私の生活に馴染んでしまって、このペコちゃんがいないと違和感がすごいです。ほとんど四六時中一緒にいるわけだからねえ。
ちなみに、このペコちゃんはもともと、2010年に、不二家創業百周年を記念して株主様限定で配られた復刻版みたいです。ちょっと調べてみるとわかるけれど、ペコちゃん人形って年代によってすごく変化していて、信じられないくらいたくさん種類があるんですよ。当時物(といってもかなりピンキリ)も検討しましたが、表情が一番好みなのと、製造時期が(こういう古い表情タイプのペコちゃん人形の中では)もっとも新しくて材質も丈夫だったのでこちらをチョイス。
形あるものはいつか壊れゆくし、私だっていつ死んでしまうかわからないけれど、せっかく巡り会えたんだから、できるだけ長く一緒に居たいなあ…そう思っています。
精神病院に入院していた期間、私は幾度となくある事項について考えを巡らせていた。つまり悩んでいたのである。
”私って、果たしてこの先、こんな私の人生をちゃんと背負っていけるのだろーか…”と。
現在の私は精神病院からも退院し、以後も治療を続けて割と精神的に回復しているものの、以前の私はそれとは異なり、ほぼ常に何かしらの不安を感じて怯えながら生きていた。けれどそれは、結局のところこの悩みが原因であったように思う。
私が自分の中でこのような考えに至った頃、私はちょうど、精神病院から退院するための根回しを始めていた。というのも、私のいた精神病院では多くの場合、患者が退院できる水準まで回復したとしても、本人が退院したいと自発的に言い出さない限り、医師は基本的にずっと静観するシステムだったのである。
だから、私のほうからに医師や看護師に何度も強く働きかけたり、親からもそのように働きかけてくれるように頼んだり、退院が決まった後も日時などの調整のために親や医師と連絡をとりまくる必要があったり、そもそも普段以上に健康に気をつけておかないと調子を崩したときに退院そのものがおじゃんになるリスクがあったりと、そのときの私の精神的回復度合いにしては、まあまあけっこうがんばらなければならなかったのである。
その最中、私はいつにもまして不安であった。手続きや生活環境の変化など、退院や、それによる変化そのものに不安を感じていたのではない。自分が、退院に向けて急ぎすぎているのではないか、急ぎすぎたせいでまた調子を崩し、これまで積み上げてきたものたちが水の泡になってしまうのではないかと不安だったのである。
自分から退院したいと言い出さない限り退院の準備は始まらないし、退院の準備が始まった後も、こちらから働きかけない限り大した動きはない。つまり、退院に向けた生活と手続きのスピードは完全にこちらに委ねられていたわけである。それが、私にとっては結構なプレッシャーだった。
私の場合、これまでの人生で急いで良かったと思える場面はほとんど存在しない。むしろ、生き急いでしまったためにやらかしまくってきた記憶しかない。今回入院しなければならないほどに調子を崩してしまった経緯だって、いろいろ複雑な理由はあれど、端的に言ってしまえばそういうことなのであった。
生き急ぎすぎるあまり、私はまた、自分ひとりでは抱えきれないほど重たいものを抱えてしまい、ひとり勝手に潰れてしまうのではないか。
”いや、ひとりで何もかも抱えるこたあないじゃんか、他人の手も少しずつ借りながら生きていけばいいじゃないの”とみなさんは思うかもしれない。全くその通りでございます。自分でもつくづくそう思うのであるが、私はどうも、差し伸べられた他人の手をどこまで取って良いのかがわからず、尻込みしてしまうタチなのである。
そりゃあ、”この人の手をここまで取っとけば、自分もある程度楽になるし相手に負担をかけすぎないですむ”だなんてはっきりとわかる人間はこの世に一人もおらんよ。みんな、あくまでもわかったふりをして生きているだけなのである。そんなこたあもうとっくに理解している。
けれど、私には、この”わかったふり”をすることが極めてむずかしい。
これに限ったことではない。私は基本的に、自分に関するすべてのことに対して”見て見ぬふり”が出来ない。どんなにくだらなく、どんなに些細なことでも受け流せないのである。
今考えても仕方のないことだなんて、心の奥底の蔵の中に放り投げておけばいいじゃないか。年月の経つうちにそれがふと腑に落ちることもあるだろうし、一生腑に落ちずに死んだとしてもそれはそれで一興じゃん、そう頭では考えているものの、そこに心がついていかない(いけない)のである。現実に、私の”状態”はあまりうまくいっておらず、どうでもいいようなことに一喜一憂し、常に振り回され、疲れ切っている。
それを繰り返しているうちに、抱えているものがどんどんどんどん増えていく。生きることが、生きていることが、私にもっともっと重たくのしかかってくる。よろめきそうになるけれど、よろめかないようになんとか歯を食いしばって無理をする。しかし、無理をし続けているので当然限界がやってくる、あるときプチッと何かが切れ、その瞬間、私ははっと我に返る。そのときにはもう手遅れである。私はもつれ、倒れ込んでしまう。
これまでの私の人生は、まさにこの繰り返しだった。転んでは起き、転んでは起き、転んでは起き…。とっても苦しかったけれど、繰り返すうちに、苦しむことにもだんだんと慣れてきた。感覚が麻痺したといってもいいのかもしれない。
近ごろ私は、このループにすらだんだんと疲れ始めてきてしまった。けれど、このループをどうやって断ち切れば良いのか、私にはまるでわからない。
というか多分、私はこのループを永遠に断ち切れないであろう。たとえ百万回生まれ、百万回死んだとしてもだ。このループは私という存在の本質だ。何があろうと、私は私以外の何者にもなれない。私の外面や内面をいくら取っ替えることができたとしても、あくまでも”そういう私”になるだけである。私は、人生におけるいろいろな苦しさから、もし逃げようと思えばなんとか逃げることができるけれど、唯一、私そのものだけからは絶対に逃げられない。
だから、これに対する唯一の解決策は、私がこういう私(ループ)を受け入れてしまうこと。大嫌いな私と仲直りすること。私はこれから生きていく中で、自分を否定することなく、”自分のことに関しては見て見ぬふりができない”という、この苦しい性質を受け入れなければならない。
それこそが、自分と仲直りすることこそが、私にとって最も辛く、最も重い。
私が、私の人生に感じている、息苦しい”重さ”の原因のひとつは、たぶん、ここにあるのだ。
元記事投稿日 – 2025年6月18日
ふと
消えたくなりました
ひとまず
死ぬべきだと思いました
死にました
——私が残りました
身体が不能になっただけでした
他者が私を存続させていました
ああ、私は
自意識を喰らった
あの女の末裔なのだと
そのとき実感しました
私は消えたいので
他者を消そうと思いました
けれど
その方法が
わかりませんでした
ひとまず
殺そうと思いました
殺しました
——他者が残りました
身体が不能になっただけでした
なんてことだ
私は
永遠に
在り続けるのだ——
私の絵は、基本的にA4のコピー用紙に、0.5mmのシャープペンシルで下書き(素描)を描き、スキャナーでパソコンに取り込んだあと、クリップスタジオペイントで彩色して仕上げています。
そんな制作のはじまりにあたる、シャープペンシルだけで描いた素描たち。
それらは、今思えば――もう二度と帰らない「あのころの未来」に満ちた、静かで幻想的な断片ばかりでした。
「幻想素描集」は、そうした素描たちを少しずつ掘り起こし、まとめてお届けするシリーズです。
絵の変遷や、自分の中にある風景を振り返るきっかけとして、また見てくださる方の心にも何か小さな引っかかりを残せたらと願っています。
「幻想素描集」第Ⅱ弾では、退院してから今現在に至るまでの素描たちをご紹介します。今年の末まで、これから逐一更新していく予定です。
※古いものから新しいものへと順に並べていますが、記憶違いにより多少前後している可能性があります。















私の絵は、基本的にA4のコピー用紙に、0.5mmのシャープペンシルで下書き(素描)を描き、スキャナーでパソコンに取り込んだあと、クリップスタジオペイントで彩色して仕上げています。
そんな制作のはじまりにあたる、シャープペンシルだけで描いた素描たち。
それらは、今思えば――もう二度と帰らない「あのころの未来」に満ちた、静かで幻想的な断片ばかりでした。
「幻想素描集」は、そうした素描たちを少しずつ掘り起こし、まとめてお届けするシリーズです。
絵の変遷や、自分の中にある風景を振り返るきっかけとして、また見てくださる方の心にも何か小さな引っかかりを残せたらと願っています。
今回は「幻想素描集」の第0弾として、これまでで最も古い素描たちをご紹介します。
昨日投稿した第1弾よりも前――つまり、私がまだ今のスタイルを確立する前に描いていた作品たちです。
改めて見返してみると、自分でも「こんな絵を描いていたんだ」と驚くようなものも多く、絵の変化を実感できる内容になっています。
ただ、正直なところ、当時の記憶がすでに曖昧になっている部分も少なくありません。
今回は、現時点で覚えている作品だけを掲載し、これから整理を進める中で、新たな作品を見つけ次第、順次追加していく予定です。
私自身にとっても、記憶の旅のような感覚でまとめています。
ご覧いただく皆さまにも、時間を越えたひとつの断片として楽しんでいただけたら幸いです。
※古いものから新しいものへと順に並べていますが、記憶違いにより多少前後している可能性があります。

































私の絵は、基本的にA4のコピー用紙に0.5mmのシャープペンシルで下書き(素描)を描き、スキャナーでパソコンに取り込んでから、クリップスタジオペイントで彩色して仕上げています。
今回から、そんな素描たちを「幻想素描集」と題してまとめていくことにしました。
第一弾としてお届けするのは、昨年の暮れから今年の2月頃まで、精神科病院に保護入院していた時期に描いた作品たちです。保護室の中、クリアファイルを下敷きにして、ベッドの上でコツコツと描いていました。
できるだけ古い順に並べましたが、記憶違いで前後している可能性もあります。その点はご了承ください。

























夜 明 け よ 急 げ ! !

眠れない
ずっと頭が張り詰めている 痛くははりつめている。
やぶれそう。こわれそう。
怖くなってナロン錠とサワイを飲んだ
勉強しなきゃいけない 絵を描かなきゃいけない 運動もしないといけない 家族の前では愛想笑いしなきゃいけない
私のことを本当に知っているのは私しかいない
やることが 私の流れが多すぎる
足りない時間が足りない身体が足りない心が足りないすべて足りない急げ急げ急げ急げ急げ

私は私のままでいたい 私は私を確認したいのよ そのために生きてるの
誰か助けて
夜は呪いだ 私は夜に呪われているのだ 夜はわたしを迫害する わたしは夜を愛撫する
わたしが止まらない 歯車がどんどん空回りしていく わたしはわたしを止められない

辛い なにが 生きることが
死にたい 死んでおしまい
誕生日の夜にこのしまつさ
親を呪いたいぜ ほんとさあ
私を喰らって 全てを忘れて
私は虚無に帰するのだ
私の頭の中には、いつもぼんやりとした“何か”が渦巻いている。だけど、それに明確な形や色を与えようとすると、途端に難しさが立ちはだかる。それでも、突如として思考がひらめく瞬間がある。それが、たぶん「アイデア」と呼ばれるものなのだと思う。
私の場合、その“アイデア”が降ってくるのはせいぜい一日に二、三個きり。しかも、たいていは作品に仕立てるには中途半端で、不十分だ。数日間、あるいは一ヶ月以上なにも降ってこないこともあるし、逆に一日に何個も湧いてくる日も稀にはある。でも、それはまさに“稀”なのだ。
本来、私たちの中にある“何か”は、はっきりと輪郭を持ったものじゃない。混沌としていて、絶えず流れ、形を変え続けている。だからこそ、それを丸ごと記録することなんて不可能に近い。アイデアというのは、その流れの中から偶然すくい上げられた、一瞬の光景なんだと思う。まるで、無限の奔流の中で、たまたま切り取られたスナップ写真のように。
だから、もし「もっとアイデアが欲しい」と思っているなら――抽象的な話になるけれど――自分をよく知ること、しかないように思う。日常的にメモを取るとか、観察を続けるとか、方法はいろいろある。でも、結局どれも、自分を見つめ直す過程の一部に過ぎない。
ただし、それは決して楽な道じゃない。私自身、自分と向き合う過程でたくさんの苦しみを味わった。自殺未遂や精神病院での生活も経験した。私は、自分の中にどうしても受け入れられない部分を抱えていた。たとえば、同性愛者であること、人との関わりがうまくいかないこと、容姿へのコンプレックス、そして社会に適応できないこと。それらを許せなかった私は、自分を徹底的に追い詰めた。けれど、その末に治療を受け、自分を一から見つめ直すことで、少しずつ自分を受け入れられるようになった。
その変化は、創作にも現れた。かつては「描かねば自分が壊れる!」という強迫観念から絵を描いていた私が、いまでは「描きたいから描くんだ!」と、素直な動機で筆を取れるようになった。それが本当に嬉しい。
子どもの頃、私は「絵に意味なんていらない」と思っていた。楽しいから描く、それだけで良かった。でも成長するにつれ、エネルギーが枯渇して、絵を完成させるには“意味”を求めざるを得なくなった。それは悪いことではなかったし、意味を持たせた創作も素晴らしいと思う。ただ、今はもう一度原点に戻れた。周囲の目や評価なんて関係ない。ただ、描きたいから描く。表現したいから表現する。それだけで、いい。
もちろん、創作に意味づけをする人たちを否定するつもりはない。彼らのやり方もまた尊い。どちらが優れているかではなく、自分がどの地点に立っているかを理解することが大切なのだ。
だから、あなたも自由に描けばいい。世の中には、裸を性的な目でしか見られない人や、その表現の意図を理解しようともしない人たちがいる。でも、彼らにわざわざ迎合する必要なんてない。あなたの作品を本当に理解してくれる人に向けて、あなたのままで届ければいい。
「この世のすべての創作は、誰かの二次創作だ」という言葉を耳にしたことがある。たしかに、私たちの表現は周囲からの影響を受けていて、完全な“自分だけのもの”なんて存在しないのかもしれない。だけど、その影響をどう取り込むかは自分次第。古典を吸収し、呪縛すら乗り越えて、あなた自身の表現を紡ぎ出せばいい。
あなたはあなたであり、それ以上でも以下でもない。誰かのコピーではない。だから、爆発していい。魂のままに、描いていい。その自由こそが、あなたの芸術なのだから。