”生きたければ勝手に生きればいいし、死にたきゃ勝手に死ねばいい
生きるなんて、多分、その程度のものだ”
ぼくは、自殺という手段をその人自らが選び取ることを肯定する。
自殺は、意識的な行為だ。
子供をつくるかつくらないかとか、結婚をするかしないかとか、それらと本質的には同じである。
「自殺」というのは、ものや環境は十分足りていると思われるのに、それでも何かを不足と感じて、あるいは満足した心境のまま選び取る死のことだ。
それが傍から見れば些か不条理な選択に思われても、当人にとっては命を引き換えにしない限り、諦めることが、納得することが出来ない問題だったのだ。
それが何かは、人それぞれだ。
死にたい気持ちを膨らます要素というのは、延々と繰り返される日常のつまらなさとその中で感じる無力感である。
明日食べるのに困っていなくとも、平和が延々と続いても、人は死ぬときは死ぬのである。
いや、平和が延々と続いているからこそ死にたくなるような側面が、人間にはある。
満ち足りた幸福というのは、いつも何か希望がない、何も気力が湧かない、意気消沈したようなところがある。
いくら満ち足りた日々を送っていようと、そこに精神的な情動(エクスタシー)がないのなら、人として”生きている”状態とは呼べず、それだけでも死を選ぶ理由に十二分になりうる。
それに、現代は凶器を欠いている。つまり、戦争などがある時代は凶器があったから、人間が元来持っている殺意がそれに向いたけれども、現代では凶器がないし、なにより自身がもともと殺意をもった生物であるという自覚も無いものだから、無意識にその殺意が自分へ向くものに、自殺願望になっているのだ。
ある男の場合は、そうして死にたい気持ちが肥大化していたところに、自らが胎児で、ただ生を渇望するだけの存在であったころのことを思い出し、再びそれを追い求める為に、自死するに至った。
かれは、再び生まれようとしたのだ。その為には、世界…自分がこれまで虚無の中につくりだしてきた幻想を破壊しなければならなかった。
感受性が無ければ、生きることすら、人間的に死ぬことすらできない。裏を返せば、死を思うことは感性がある証左、非常に人間らしい状態であると言う事も出来る。
かれは、最後に訪れたその瞬間、没我するほどの震える感動を、燃え盛る情熱を感じながら、とても人間らしくなることが出来たのだ。
人間として、死ぬことが、再び生まれることが、出来たのだ。
これが、かれが人間らしくなることができる、唯一の瞬間であったのだ。
生活に追われているワケも、病に苛まれているワケでもなく、しかし心の機微を思い出せず、連綿と続く日々にただ虚しさばかりが募る時。それをすでに”生きていない”状態として自ら死を選ぶことは、人間らしい行為に違いない。
それは、人間が人間らしく生きられないこの世界に対して、かれが出来る唯一の反抗であった。
かれには、理由なき反抗なんて出来なかった。
反抗するための理由がかれには必要だった。
何かそのような理由付けをしないと、彼はこの世界に反抗することすら出来なかったのだ。
それは、彼のせいではない。どこまでも自由なこの世界のせいだ。
この世界は、地獄だ。
自由という、最悪で最高の地獄なのだ。
ある朝ぼくは目を覚ました
その朝ぼくは目を覚ましたことを
ぼくは明確に知っていた
こんな感じは初めてだった
怖かった
仕事に行こうと思った
靴の紐を結ぼうと思ったら
結び方が解らなくなった
ぼくの感情と
ぼくの靴の紐は
無茶苦茶になってしまったけれども
ドアを開ける
ドアを閉める
ほら世界はこんなにも単純にできあがっている
物語はもう必要なかった
鍵をかける
これで
終りだふり返るとそこには
自由という無限の地獄が広がっていた
慎重に一歩を踏み出す
ぼくは不幸ではないがんばれ
がんばれ
がんばれ
がんばれ
がんばれ
がんばれ
がんばれ
がんばれ
がんばれ
……….
_____西岡兄妹『この世の終りへの旅』