【過去の日記】セルロイドと私 – 2024.11.27 21:44

セルロイド。
その響きに、私はひそかなあこがれを抱いている。
最初にセルロイドの名を目にしたのは、おそらく誰もが一度は目にしたことのある、野口雨情が作った例の歌詞だったと思う。

”青い目をしたお人形は アメリカ生まれのセルロイド
日本の港に着いた時 涙を一杯浮かべてた
私は言葉が分からない 迷子になったら何としょう
優しい日本の嬢ちゃんよ 仲良く遊んでやっとくれ
仲良く遊んでやっとくれ”

私は幼いころから、青い目の人形に対する好奇心を抱いていた。
“日米親善の象徴として送られながらも、大戦突入によって「敵国人形」として大半が焼かれたが、「敵国の捕虜だからしかるべく保管をしなければならない」と、国の建前を逆手に取った心ある知恵者のおかげで少数が保存され、現在に至る”という一連の話の大筋は多くの方がご存知のことと思うし、もちろんそこが最も注目されるべき点であることは言うまでもないのだが、私はそれ以前に、この人形そのもののつくりの精巧さに魅了されていたのである。

そもそも当時のわたしは、ぬいぐるみを除く人形全般にただならぬ恐怖を抱いていた。それは、確固たる視線を向けてくるのにもかかわらず中身が空虚であり、そこに何の意味付けもできないことが原因であったと今では思っているのだが、その恐怖心の反面、そんな人形の在り方に畏怖の念を抱いていた。早い話が、自分が絶対に到達できないその境地に憧憬を抱いていたのである。

そんな心境の中で青い目の人形に出会ったので、私の心はまず、日米間にまつわる一連の物語ではなく、人形そのものに引き寄せられた。
青い目の人形は宣教師のシドニー・ギュリックの呼びかけによってアメリカ各地から親善協会に集められたものなので個体差は存在するものの、当時私の見た文献によれば、高さ五十センチ程、黒い髪に白い帽子、目元はぱっちりとしていて、水色の半袖の服にふぁーっとしたスカート、その下にはレース付きの下着を着ていた。極めつけには、横に寝かせると目をつぶり、起こして坐らせると「ママー」と声を出したという。

なるほど、今になって見ても、私が惹かれた理由がわかる。私は、古いながらも精巧なつくりのものには目がないのである。

同時に、”セルロイド”の音の響き、口に出したとき心地よさも相まって、私はすっかり青い目の人形の虜になった。そして、セルロイドが、その確固たる象徴として、私の中に君臨した。

その後、札幌の時計台でそのうちの一体「ファンニー・ピオ」も実際に見た。けれど、依然としてその人形はセルロイド製だと思っていたので、セルロイドサロンのコラムで実際にはビスクドール(二度焼きした素焼きの人形:ビスケットも二度焼きしたという意味がある)であったこと、そもそもシドニー・ギュリックはこの歌を聞いたことがきっかけで日本に人形を贈ろうと思いついたことを知った時にはずいぶんと拍子抜けしたものである。

結局、アメリカから贈られた人形とセルロイドには、何の関係も無いのであった。

だいぶ話が逸れてしまったが、これが、私とセルロイドの出会いであった。その後、青い目の人形に対する念量がだんだんと薄まってもなお、セルロイドは、その軽やかな語感と不思議な外見で、私の心を引き止めている。

最近は、ハンドメイド向けのセルロイドカボションが気になっている。数年離れていたせいで、手芸に対する欲が溜まっている。ヴィンテージDecoさんで販売されていて、水彩のようににじんだ色合いがとてもかわいらしいのだ。

ちなみに、この日記帳(注:現在は閉鎖)で私のプロフィール画像に用いている人形は、以前購入させていただいた、日本で唯一セルロイド人形制作を続けているセルロイド・ドリームさんのセルロイド人形、ミーコちゃんである(ペイントと洋服はメアリーさんによるもの)。

昨今のプラスチックとは少し違う、冷たさがなくさらさらとした、独特の手触りの愛らしいお人形である。気になった方は一度、氏のホームページを覗いてみてはいかがだろうか。


【補足】セルロイド

セルロイドとは、ニトロセルロース(硝化綿)と可塑剤となる樟脳を主原料とする合成樹脂であり、世界初の高分子プラスチックである。1856年にイギリスのアレキサンダー・パークスによって作られたのが始まりであるが、「パークシン」と名付けられたそれは、コストの問題から失敗に終わった。

その後、1870年にアメリカのジョン・ウェズリー・ハイアットがビリヤードボールの原料であった象牙の代替品として実用化に成功し、彼の会社の商標としてセルロイドが登録された。他にもコルセットや義手義足に利用され、その後20世紀の半ばまで、多くの製品に幅広く利用された。

日本では1877年頃に輸入が開始され、1908年には国産化されるようになった。その後、堺セルロイド等8社の合併によって大日本セルロイドが設立されるに至った。

しかし、1955年、アメリカで可燃物質規制法が制定され、日本製のセルロイド玩具等はすべてアメリカに輸出できなくなった。このときに持ち出された火災事故のうちのひとつが、1932年の白木屋大火であるといわれる。セルロイド製品の市場からの排除運動は全世界に広まったため、世界的にセルロイドの製造や消費は落ち込んだ。

最大の欠点である燃えやすさを克服しようと業界では他の可塑剤も研究されたが見つからず、ポリ塩化ビニル等の後発素材に取って代わられた。日本では、1996年以降は生産されていない。


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元記事投稿日 – 2024.11.27 21:44

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