登場人物が自ら破滅する物語に、惹かれます。
酷いいじめに遭っていたとか、闇金でどうしようもなくなったとか、戦争ですべてを失ってしまったとか、そういう外部からの影響を多大に受けた破滅については除外です。
特段、なんの不自由もなく暮らしていたのに、そこそこの人生を送っていたのに、ある日突然、衝動的に、自らの足で破滅に向かって駆けていく。自らの手で、すべてを捨ててしまう。誰にも理由を語らぬままに、海の藻屑となって、消えてゆく。
そんな姿を、美しいとさえ感じてしまいます。たぶんものすごく不道徳だし、不謹慎ですが。
そもそも私は、残念ながら、そんなに理性的な人間ではありません。いっときの感情で衝動的に行動する、盲目的な愚か者です。だから、あらゆる事物の善し悪しの判断にいちいち複雑な基準を設けていると、頭がぱあになってしまうのです。
だから、私にとっての善し悪しを判断するための基準は、ただひとつ。
自分にとって美しいか、美しくないか、それだけです。
それを踏まえると、私にとって、自ら破滅を選び取る彼らの姿は、その残酷さは、あまりにも美しい。一度頭に浮かんでくると、もう他のものがすべて頭から追い出されてしまうくらいには、心をひいてやまないものです。
もはや、一直線に破滅に向かうその姿こそが、破滅の恍惚に悶えるその姿こそが、本来の人間の姿に限りなく近い姿なのではないかとさえ感じてしまいます。
それが何故なのか、理由はいくつも思い浮かびますが、その一つは、彼の姿が現実には存在しえない、いや、時のきまぐれで一時的に幻影として映し出されることはあっても、やはり永続的に存在することが決して不可能であるからなのです。
つまり、儚いものだからなのです。
時がつくりだした奇跡であるからなのです。
彼の姿は、虚無のなかにふっと生まれたかりそめの生命、めざすべきどのような正当さももたない欲望、真の人間の姿、そのものなのです。
社会の長い連鎖に未だにつながれない、孤独で自由な眠り、そう、眠りなのです。
眠りだからこそ、目覚める時は、必ずやってくるのです。
生まれるということは、まさに目覚めること。
否応なしに、自分が社会に所属した存在であると認識させられるということなのです。
この世の誰しも、かつては彼と同じようであった筈です。生まれる前、まだ眠っていた時は、生への欲動(つまり、死の欲動)以外の何をも内包しない、純粋な生命、人間、性衝動そのものであった筈です。
そうであったからこそ、純粋に、生きること(死ぬこと)だけをを希求していたからこそ、力を振り絞って、生まれることが出来たのでしょう。
そういうふうに自分を追いかけた結果、かえって自分を偽らないと生きられない社会に目覚めることになるとは、しかも、そんなふうに生の欲動を失うことを「生まれる」と表現するだなんて、人間とは本当に皮肉なものです。
けれど、あの頃の感覚は、頭では忘れていようとも、私たち、この地獄でぼやく幽霊の魂に、その神髄に、今なお染みついているのではないでしょうか。
だからこそ私たちは、何気ない日常生活でも、あるときふと、あの頃と、胎児だった頃と同じものを、二度と繰り返し得ぬ、その一度限りなるものを、再び追い求めたくなるのでしょう。
死の淵にさらされる恐怖を。
その中で純粋に生きる喜びを。
だからこそ、私たちは思うべきでしょう。思想として、選択として、「滅亡」を選ぶことの、むなしい、けれど、輝かしい勇気を。
すべてを捨ててしまうこと、それは、決して支離滅裂な選択ではない筈です。
ただ、あのころの姿を、純粋な生命を、人間の本当の姿を追い求めたいという思想に基づく、至極真っ当な選択、人間そのものの本質を希求する「美」の体系そのものなのだと、思うのです。
以上の文章は、ことしの始め、まだそこそこ学校生活を頑張れていたころに書いたものです。
要するにひそかな破滅願望があったわけですが、その後もそいつの影は薄まることなく、むしろどんどん現実味を帯びていき、私はだんだん、頭の中で自殺をして、その恍惚に悶えるという妄想オナニーを嗜むようになっていきました。
そうして、つい数週間前、ようやっとして衝動的な自殺未遂に陥ってしまったわけであります。向精神薬を飲んでだいぶ安定してきた今になって振り返ると、自分史上最大級の鬱で相当に視野が狭くなっていたし、馬鹿になっていたとは思うのですが、だとしても、そもそもそれ以前に、破滅=自殺という図式がすでに安直で愚かであるよ。破滅だって、考えようによっちゃあもう少しなんかあったでしょ、と自分に言いたいです。けれど、私のチンケな頭じゃ自殺が限界か。ハハハ、、、
つまり、いっときは破滅の恍惚を感じていたいけれど、その後もそれがずっと続くのは不安で恐ろしいんで、一瞬恍惚を感じて次のコマではパッタリ、というわけです。なんたるチキン。
先述の通り、私は愚か者なので。いっとき衝動的に思考の海に潜ることができても、息が続かずにすぐに上がってきてしまうので。この先数十年生きながらえれば、肺活量ももう少しは増えるもんですかねぇ。増えてほしいなぁ。他力本願です。だからお前は愚か者ってんだよ。
話を妄想に戻しますと、私の中でこの世は、無限に広がる荒野の遥か上空にガラス張りの動く歩道があって、みんながそこに載せられているイメージです。何も考えずとも、主体性を持たずとも、なんとなくでずっと過ごしていけるけれど、どこか虚しくて、なにか大きなものが抜け落ちているようで、生きることも死ぬこともままならないような。
それに、ガラス張りですから、眼下にはぽつぽつと、荒野で血を吹き出しながらもがく人々の姿も見えているわけです。彼らは、自らの手でガラスを割って、飛び降りた人たちです。今まさにガラスを割って、飛び降りるさなかの人も見えます。彼らのほうがよほど苦しくみじめだとわかっているはずなのに、そんな彼らにあこがれてしまう。けれど、自分の手でガラスを割る勇気まではないんです。当然だよ。彼らだって、勇気なんかは別に持っていなくて、ただ単に、自分で自分を追い詰めて、あるいは何かに追い詰められて、衝動的にガラスを割って飛び降りただけなんだから。
結局のところ、あらゆることがままならないのです。私はたぶん、そんな無力感に憂いています。
だからどこかで、「こんな空虚なんか、本来の人間の姿じゃない」ひいては、「本来なら、もっと純粋な生命感に満ちているはずだ、人間は、生の欲動そのものであるはずだ!」なんて思いたいんでしょう。なんとも幼稚な妄想です。
それに、生の欲動そのものって、それ、ただの動物と一緒じゃん。人間から理性が消えてしまったら、もはやそれって人間じゃないじゃん。理性があるからこそ、社会は成り立っているんじゃん。確かに、破滅って、ぜんぜん理性的な選択肢じゃないよね、、、。なんて、こんな簡単なことも考えられないくらいには、当時の私は視野が狭かったのです。
とにもかくにも、いつからか、私の妄想の中の「本来の人間」、つまり、生の欲動は、生まれることだけを希求する胎児のイメージと結びついて、「わたしたちはきっと、胎児だったころ、純粋な生の欲動だったころの快感や恍惚を感覚的に覚えている。だから、腹の中から生まれて、理性に目覚め、社会に繋がれて無力感に満ちた今でも、時折そのころの感覚を思い出して、そこに戻りたくなるのだろう」という一連の物語ができあがりました。
今でも私は、妄想オナニーを続けています。言うなれば、コンコンと、割れない程度にガラスを叩いて、かりそめの恍惚に悶えています。すごい馬鹿だなあとは思うけれど、一度始めたらとてもやめられませんよ、こんなの。正直、あまりやめたいとも思えないし。たぶん、一生続くと思います。
私の人生は、オナニーそのものです。書いていて情けないですよ。なんてくだらない、、、。
元記事投稿日 – 2024.11.28 12:42