現実と幻想が曖昧になった空間。つまり、妄想が好きです。
それはたしかな逃避行に変わりないのですが、そもそも、人間の人生というのはすべてが逃避行だと、私は思うのです。
生きることに面と向かって向き合うのが怖いから、どれだけ嫌なことがあっても、なんだかんだで生き続けてしまうのです。
ほんとうに生きることに向き合って、どんどんクオリティーの高い生き方を突き詰めていくと、どんな人間でも、最終的には自ら死ぬことになってしまいます。
実は、死ぬというのは人生のクォリティーの部分だけを考えればとてもかしこい選択で、それとは逆に、生きることというのは、とても馬鹿馬鹿しい選択なのです。
それなのに、世の中の多くの人達は、私に生きることを要求してきます。
物心のついてからずっと、何も考えずにちんたらちんたら生き続けている自分たちの愚かさに向き合うのが怖くて、そこから逃げるために、自分たちと同じような逃避仲間を増やしたがっているのです。
そして、私も、そういう人々にささやかな反抗を繰り返しながらも、今現在、結局は生きることを受け入れてしまいました。
これでまた一人、この世界に愚者が増えてしまったことになります。
今なお世界では、賢者の増え方以上に愚者の増え方のほうが凄まじいので、総人口は増え続けるばかりです。
けれど、じゃあ私が”そういう人々”と完全に同化したのかといえば、違います。
私は、生きることを受け容れましたが、それと同時に死ぬことも受け容れたのです。
そして、それは他者に対しても同じです。
私が”そういう人々”と違うのは、決して”生きること至上主義”ではないという点においてです。
同時に私は、”死ぬこと至上主義”でもありません。
はっきり言って、生きること、死ぬことはくそくらえです。
どっちだって、なんとかして価値を見出そうと頑張っている人々が多いけれど、そんなものはあくまでも思い込みであって、生きることも死ぬことも、本質的にはさっぱりするほど無価値です。
だから、この世界でだれが自ら死のうとしたって、それを止める権利は私にはありませんし、はなから止めるつもりもありません。
どれだけ身近な人間であっても、それは変わりません。
生きたければ勝手に生きればいいし、死にたければ勝手に死ねばいいのです。
つまり、生きることと死ぬことに、本質的な価値の違いはないということです。
究極の、”価値の相対化”です。
そう考えるようになってから、私は、辛くて辛くてたまらなかった生きることが、そんなに辛くなくなりました。
肩肘を張ることなく、お気楽に生きることができるようになったのです。
生きることと死ぬことが無価値であることすら、受け入れたのです。
それを受け入れないと、いつまでたっても私の人生は虚無感に満ちたものだったでしょう。
虚無感というのは、それを受け入れないから感じるものなのです。
虚無感を受け入れることができれば、もはや虚無感は消失します。
すべてを受け入れる、どうでしょう。
これこそ、まさに逃避行、人生そのものではありませんか。
元記事投稿日 – 2025年4月26日