あなたはあなたのままでいて – 創作で行き詰まったときは

スナップ写真のような「アイデア」

私の頭の中には、いつもぼんやりとした“何か”が渦巻いている。だけど、それに明確な形や色を与えようとすると、途端に難しさが立ちはだかる。それでも、突如として思考がひらめく瞬間がある。それが、たぶん「アイデア」と呼ばれるものなのだと思う。

私の場合、その“アイデア”が降ってくるのはせいぜい一日に二、三個きり。しかも、たいていは作品に仕立てるには中途半端で、不十分だ。数日間、あるいは一ヶ月以上なにも降ってこないこともあるし、逆に一日に何個も湧いてくる日も稀にはある。でも、それはまさに“稀”なのだ。

本来、私たちの中にある“何か”は、はっきりと輪郭を持ったものじゃない。混沌としていて、絶えず流れ、形を変え続けている。だからこそ、それを丸ごと記録することなんて不可能に近い。アイデアというのは、その流れの中から偶然すくい上げられた、一瞬の光景なんだと思う。まるで、無限の奔流の中で、たまたま切り取られたスナップ写真のように。

だから、もし「もっとアイデアが欲しい」と思っているなら――抽象的な話になるけれど――自分をよく知ること、しかないように思う。日常的にメモを取るとか、観察を続けるとか、方法はいろいろある。でも、結局どれも、自分を見つめ直す過程の一部に過ぎない。

ただし、それは決して楽な道じゃない。私自身、自分と向き合う過程でたくさんの苦しみを味わった。自殺未遂や精神病院での生活も経験した。私は、自分の中にどうしても受け入れられない部分を抱えていた。たとえば、同性愛者であること、人との関わりがうまくいかないこと、容姿へのコンプレックス、そして社会に適応できないこと。それらを許せなかった私は、自分を徹底的に追い詰めた。けれど、その末に治療を受け、自分を一から見つめ直すことで、少しずつ自分を受け入れられるようになった。

その変化は、創作にも現れた。かつては「描かねば自分が壊れる!」という強迫観念から絵を描いていた私が、いまでは「描きたいから描くんだ!」と、素直な動機で筆を取れるようになった。それが本当に嬉しい。

子どもの頃、私は「絵に意味なんていらない」と思っていた。楽しいから描く、それだけで良かった。でも成長するにつれ、エネルギーが枯渇して、絵を完成させるには“意味”を求めざるを得なくなった。それは悪いことではなかったし、意味を持たせた創作も素晴らしいと思う。ただ、今はもう一度原点に戻れた。周囲の目や評価なんて関係ない。ただ、描きたいから描く。表現したいから表現する。それだけで、いい。

もちろん、創作に意味づけをする人たちを否定するつもりはない。彼らのやり方もまた尊い。どちらが優れているかではなく、自分がどの地点に立っているかを理解することが大切なのだ。

だから、あなたも自由に描けばいい。世の中には、裸を性的な目でしか見られない人や、その表現の意図を理解しようともしない人たちがいる。でも、彼らにわざわざ迎合する必要なんてない。あなたの作品を本当に理解してくれる人に向けて、あなたのままで届ければいい。

「この世のすべての創作は、誰かの二次創作だ」という言葉を耳にしたことがある。たしかに、私たちの表現は周囲からの影響を受けていて、完全な“自分だけのもの”なんて存在しないのかもしれない。だけど、その影響をどう取り込むかは自分次第。古典を吸収し、呪縛すら乗り越えて、あなた自身の表現を紡ぎ出せばいい。

あなたはあなたであり、それ以上でも以下でもない。誰かのコピーではない。だから、爆発していい。魂のままに、描いていい。その自由こそが、あなたの芸術なのだから。

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