私の人生が、私にとって重たすぎる理由 – 2025年6月18日

精神病院に入院していた期間、私は幾度となくある事項について考えを巡らせていた。つまり悩んでいたのである。

”私って、果たしてこの先、こんな私の人生をちゃんと背負っていけるのだろーか…”と。

現在の私は精神病院からも退院し、以後も治療を続けて割と精神的に回復しているものの、以前の私はそれとは異なり、ほぼ常に何かしらの不安を感じて怯えながら生きていた。けれどそれは、結局のところこの悩みが原因であったように思う。

私が自分の中でこのような考えに至った頃、私はちょうど、精神病院から退院するための根回しを始めていた。というのも、私のいた精神病院では多くの場合、患者が退院できる水準まで回復したとしても、本人が退院したいと自発的に言い出さない限り、医師は基本的にずっと静観するシステムだったのである。

だから、私のほうからに医師や看護師に何度も強く働きかけたり、親からもそのように働きかけてくれるように頼んだり、退院が決まった後も日時などの調整のために親や医師と連絡をとりまくる必要があったり、そもそも普段以上に健康に気をつけておかないと調子を崩したときに退院そのものがおじゃんになるリスクがあったりと、そのときの私の精神的回復度合いにしては、まあまあけっこうがんばらなければならなかったのである。

その最中、私はいつにもまして不安であった。手続きや生活環境の変化など、退院や、それによる変化そのものに不安を感じていたのではない。自分が、退院に向けて急ぎすぎているのではないか、急ぎすぎたせいでまた調子を崩し、これまで積み上げてきたものたちが水の泡になってしまうのではないかと不安だったのである。

自分から退院したいと言い出さない限り退院の準備は始まらないし、退院の準備が始まった後も、こちらから働きかけない限り大した動きはない。つまり、退院に向けた生活と手続きのスピードは完全にこちらに委ねられていたわけである。それが、私にとっては結構なプレッシャーだった。

私の場合、これまでの人生で急いで良かったと思える場面はほとんど存在しない。むしろ、生き急いでしまったためにやらかしまくってきた記憶しかない。今回入院しなければならないほどに調子を崩してしまった経緯だって、いろいろ複雑な理由はあれど、端的に言ってしまえばそういうことなのであった。

生き急ぎすぎるあまり、私はまた、自分ひとりでは抱えきれないほど重たいものを抱えてしまい、ひとり勝手に潰れてしまうのではないか。

”いや、ひとりで何もかも抱えるこたあないじゃんか、他人の手も少しずつ借りながら生きていけばいいじゃないの”とみなさんは思うかもしれない。全くその通りでございます。自分でもつくづくそう思うのであるが、私はどうも、差し伸べられた他人の手をどこまで取って良いのかがわからず、尻込みしてしまうタチなのである。

そりゃあ、”この人の手をここまで取っとけば、自分もある程度楽になるし相手に負担をかけすぎないですむ”だなんてはっきりとわかる人間はこの世に一人もおらんよ。みんな、あくまでもわかったふりをして生きているだけなのである。そんなこたあもうとっくに理解している。

けれど、私には、この”わかったふり”をすることが極めてむずかしい。

これに限ったことではない。私は基本的に、自分に関するすべてのことに対して”見て見ぬふり”が出来ない。どんなにくだらなく、どんなに些細なことでも受け流せないのである。

今考えても仕方のないことだなんて、心の奥底の蔵の中に放り投げておけばいいじゃないか。年月の経つうちにそれがふと腑に落ちることもあるだろうし、一生腑に落ちずに死んだとしてもそれはそれで一興じゃん、そう頭では考えているものの、そこに心がついていかない(いけない)のである。現実に、私の”状態”はあまりうまくいっておらず、どうでもいいようなことに一喜一憂し、常に振り回され、疲れ切っている。

それを繰り返しているうちに、抱えているものがどんどんどんどん増えていく。生きることが、生きていることが、私にもっともっと重たくのしかかってくる。よろめきそうになるけれど、よろめかないようになんとか歯を食いしばって無理をする。しかし、無理をし続けているので当然限界がやってくる、あるときプチッと何かが切れ、その瞬間、私ははっと我に返る。そのときにはもう手遅れである。私はもつれ、倒れ込んでしまう。

これまでの私の人生は、まさにこの繰り返しだった。転んでは起き、転んでは起き、転んでは起き…。とっても苦しかったけれど、繰り返すうちに、苦しむことにもだんだんと慣れてきた。感覚が麻痺したといってもいいのかもしれない。

近ごろ私は、このループにすらだんだんと疲れ始めてきてしまった。けれど、このループをどうやって断ち切れば良いのか、私にはまるでわからない。
というか多分、私はこのループを永遠に断ち切れないであろう。たとえ百万回生まれ、百万回死んだとしてもだ。このループは私という存在の本質だ。何があろうと、私は私以外の何者にもなれない。私の外面や内面をいくら取っ替えることができたとしても、あくまでも”そういう私”になるだけである。私は、人生におけるいろいろな苦しさから、もし逃げようと思えばなんとか逃げることができるけれど、唯一、私そのものだけからは絶対に逃げられない。

だから、これに対する唯一の解決策は、私がこういう私(ループ)を受け入れてしまうこと。大嫌いな私と仲直りすること。私はこれから生きていく中で、自分を否定することなく、”自分のことに関しては見て見ぬふりができない”という、この苦しい性質を受け入れなければならない。

それこそが、自分と仲直りすることこそが、私にとって最も辛く、最も重い。

私が、私の人生に感じている、息苦しい”重さ”の原因のひとつは、たぶん、ここにあるのだ。

元記事投稿日 – 2025年6月18日

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