西岡兄妹(にしおか きょうだい)は、兄・西岡智と妹・西岡千晶による、漫画家の合同ペンネーム。 三重県津市出身。 西岡千晶は大学時代に染色を専攻していた。フランツ・カフカの影響が濃い兄による物語(ネーム)と、刺繍細工のような妹の作画とで、独自の世界を築いている。 西岡兄弟 プロフィール - スパンアートギャラリー
鬱とは、端的に言ってしまえば脳のエネルギー不足である。
あまり普段意識することはないかもしれないが、人間の脳とは、摩訶不思議な未知のブラックボックスなんぞではない。
ただの精密につくられたコンピューターシステム、機械に過ぎないのである。
その本質は、私たちがいつも使っているパーソナルコンピューターと、実はそんなに変わったものでもない。
機械なのだから、エネルギーが枯渇すれば満足に働けない。
ある程度のエネルギー不足に陥れば、当然それと同程度の機能停止に陥る。
私たちの脳の場合は、表層部から徐々に、深いところへと機能停止していくようになっている。
この「脳が、エネルギー不足によって、表層部からある程度深い部分まで機能停止に陥った状態」が、俗にいう“鬱”状態なのである(と、私は勝手に思っている)。
ここまでウツウツ喚いていることからお察しの通り、私は精神疾患、恐らく双極性障害を抱えている。だから時折、自らの意思と関係なく鬱状態になる。
そのとき、私の脳の表層部から中層部にかけての機能が停止し、普段は隠されている深層部が露わになる。
普段から、常にその存在にはうっすら気づいていながらも、その上を渦巻く混沌とした思考の流れによって隠され、半ば存在を忘れさせられていたそれが、私の中に顔を出す。
西岡兄妹がその作品の多くで描いているのは、人間にとって普段は隠されている、この“深層部”なのだと、私は思う。
だから、西岡兄妹の作品には、理屈を求めることが出来ない。そもそも、人間から思考そのものが取り除かれた状態を描いているのだから、そこに理屈が存在するわけがない。
そこにりんごがあれば、それをそのまま描く。
そこに胎児が埋まっていれば、それをそのまま描く。
そこに卒塔婆が立っていれば、それをそのまま描く。
そこに連なっているものを、存在しているものを、そのまま描き連ねているだけ。
それがそこに存在しているという、純粋な“それ”の重みだけが、私という存在にずっしりとのしかかってくる。
元来、私にとって、人生に安寧なんてものは存在し得なかった。
私の中に広がる混沌は激しく変化し続け、その不安定さに、言うなれば、私という存在そのものの不安定さに私は恐怖した。
束の間だけでも私を確たるものにしたい、安寧を得たい(つまり、私の中で、ある状態が継続する期間を少しでもつくりたい)と無理にもがき続けたあまり、躁状態と鬱状態が交互に訪れる双極性障害に罹患してしまった。
精神科に保護入院して何日か経った後、鬱状態の中、閉鎖病棟の冷たい保護室で、改めて彼らの作品を開いた。
そこで、初めて気がついた。
私は、自分の中に確たるものが欲しいあまり、苦しみ、彷徨い続けてきた。
けれど、私を苦しめ続けてきた混沌の下に、それは、いつもずっとあったのだ。
それは、「常に彷徨い続ける“私”という存在だけは、確実に存在し続けている」という、ルネ・デカルトの提唱する命題にも通ずるような、“私“という存在そのものの確実性と、重みだった。
混沌の消えた、私という虚無の中に、それがある。
西岡兄妹の作品の中に、それがある。
私がそれを見失いそうになったとき、私は、西岡兄妹の作品を通して、それの存在を再確認できる。
私が西岡兄妹の作品に触れている中で感じる、諦念にも近い安心感は、ここに起因するのかもしれない。
もはや、“読む”という言葉で表すには些か異質な状況である。
『自選作品集 地獄』のあとがきにおける大下さなえ氏の言葉の通り、“体験”という言葉がふさわしい。
私たちは皆、彼らの作品を読むことは出来ない。その中に入って、体験するしかない。
そして、その“体験”が、鬱状態の私には、出来てしまった。無意識の内に、彼らの作品の中に入って、生きていた。
私がこれまでしてきたことは、そういうことだったのだ。
私は決して、西岡兄妹の作品を誰かに薦めたくてこれを書いたわけではない。
解説がしたかったわけでもない。
ただ、西岡兄妹の作品を通して私がしてきた体験の多くが、今では私という存在にとってかけがえのなく、とても素敵なものになったということを、これを読んでくださったみなさまと共有したかった次第である。
西岡兄妹の作品があったから、私は今、ここにいる。
そして、こうした鬱状態の際に唯一読む(読むに耐えうる)本が、西岡兄妹の作品群なのである。彼らの作品は、人間の無意識の内容物を、深層心理を、沈むような夢の中を描いている。そして、鬱というのは、私の心理の表中層部が一時的に停止するとき、つまり、彼らの描いている心理の深層部に私が限りなく近づときなのである。であるからして、私は、鬱のとき、彼らの作品群に、とても深いシンパシーを感じずにはいられないのである。それはやはり、人間としての、ひとつの安寧のかたち、「救いなどどこにもない」という、ある種の諦念のかたちなのある。 私が閉鎖病棟に入院していた頃の日記より

トップ画像:夜(単行本 『ぼく虫』収録)より
西岡兄妹:https://www.ztv.ne.jp/bro-sis/
元記事投稿日 – 2025年3月25日