まだ、将来への期待と不安で押しつぶされそうになっていた中学生の頃。
純粋に好き、楽しいという気持ちよりかは、日々の不安から逃れるために、逃避手段の一つとして、以前からそこそこうまかった”絵を描くこと”に執着していました。
学校の美術部(その実態はほぼ自堕落なイラスト・マンガ・アニメ同好会だったけれど、みんなが純粋に好きなものを見せあいっこして共感している空間で、楽しかったな)に所属するだけでは飽き足らず、両親にお願いして、近所の生協でやっていた絵画教室に通っていました(子どもむけの教室だったので、私と弟以外はほぼ、幼稚園や小学校低学年の子達でしたが)。
先生は実際に画家としてご活躍されている方で、芸術の世界に漠然とした憧れを抱きつつも、そこに思い切って踏み込めないもどかしさ、不甲斐なさを感じていた当時の私にとって、先生の教室は、その世界を肌身に感じさせてくれる、とても嬉しく、楽しく、大切な機会でした。
以下は、そんな頃に描いた絵の一部です。


最初に魚部分をすべてマスキングしたうえで背景の海を塗っているので、けっこうな手間がかかっています。

私が描いた中で、最も新しい水彩画です。それでも2年以上前ですが。
受験が重なってしまったのもありますが、完成までに一年近く費やしてしまいました。
↑絵画教室で描いた水彩画たち。一部ですが、古いものから新しいものへと並べました。
最近はすっかりデジタル作画(注:線画のみアナログ)になっていますが、魂をこめた”かたち”が現実的なものとして残るアナログの絵って、やっぱりいいよなあ、とも思っています。
いろいろなことが落ち着いたら、また描きたいな。
水彩ももちろんだけど、実は、油絵をやってみたいと小学生の頃から密かに思い続けているので、先生にお願いして学んでみようかしら。



↑中学3年生の途中まで、以前住んでいた家の斜め向かい前にあった書道教室に通っていました。
ちょっとお金持ちのマダムの、おばあちゃん先生がひとりでやっている教室だったのですが、受講生が大人の奥さんばかりの中、小学一年生で入ってきた私と弟のことを、まるで本当の孫のように、あきれるほどかわいがってくれていました。
月謝は、私と弟の二人で、一人分だけ。
一階の立派な居間に連れて行ってくれて、ジュースやお菓子をごちそうになったり。
学芸会の練習をするために、立派なラジカセをまるごと貸してくれたり。
秘密基地を作るための段ボールや竹をくれたり。なんなら家まで運んでくれたり。
まだ小さくて、用を足したあとにお尻を自分で拭けなかった弟は、先生に拭いてもらったり。
当時通っていた剣道が辛くて辛くて、先生の目の前でわんわん泣いたり。
あずきバーを初めて食べたのも、ハーゲンダッツを初めて食べたのも、先生の家だった気がします。
本当に、いろんなことがあって、それらがすべて、素敵なやわらかさとあたたかさに包まれていました。
けれど、そんな先生は、私が中学3年生になったある日、急に病に倒れ、即入院。
ろくに顔も会わせられないまま、教室は無くなってしまい、それきり先生とも会えなくなってしまいました。
この三枚の花の絵は、入院している先生にと、私が色鉛筆で描いて、手紙とともに送ったものです。
返事はありませんでした。尤も、とても返事ができる状態ではないのだと思います。
もともと高齢の先生だったので、おそらく、もう長くはないのでしょう。あれからずっと、今でも毎日、母に新聞のおくやみ欄を確認してもらっています。入院先もわからないので、それしか、安否を確かめる方法が無いからです。
もしも亡くなられてしまったときには、なんとか、お葬式にだけは絶対に行こうと思います。未だに伝えられずじまいの、8年半分の感謝を伝えに。
元記事投稿日 – 2025.02.27 20:15