卓上ペコちゃん人形(2025年8月6日更新)

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不二家のお店にはほとんど行ったことがないけれど、それでもなぜか昔から好きだったのが、頭を撫でると頭がゆらゆら揺れるペコちゃん人形。特別”ペコちゃんが大好き!!!”というわけでもなくて、”普通に好き!”程度なのですが…ああ、でも、無邪気なペコちゃんが出てくる昔の不二家のCMは大好きだなあ…それに、自分の好きな女装家のキャンディ・H・ミルキィさんも、キャンディ・キャンディマニアになる前はペコちゃんマニアだったらしいし…って、結局大好きなんじゃないか。そんなペコちゃんの中でも、私は人形がいちばん好きなのです。
小学生の頃からほしい、ほしいと思っていたのを、ことしの春についにお出迎え。お店の等身大のものとは異なり卓上サイズですが、それでもちゃんと、頭がゆらゆらゆれるのです。現在は手作りの白いマフラー(本当はシュシュなんだけれど、シュシュとして使う機会も無いので)を着せて、作業机の、私が座るすぐ眼の前に置いてあります。
もうすっかり私の生活に馴染んでしまって、このペコちゃんがいないと違和感がすごいです。ほとんど四六時中一緒にいるわけだからねえ。
ちなみに、このペコちゃんはもともと、2010年に、不二家創業百周年を記念して株主様限定で配られた復刻版みたいです。ちょっと調べてみるとわかるけれど、ペコちゃん人形って年代によってすごく変化していて、信じられないくらいたくさん種類があるんですよ。当時物(といってもかなりピンキリ)も検討しましたが、表情が一番好みなのと、製造時期が(こういう古い表情タイプのペコちゃん人形の中では)もっとも新しくて材質も丈夫だったのでこちらをチョイス。
形あるものはいつか壊れゆくし、私だっていつ死んでしまうかわからないけれど、せっかく巡り会えたんだから、できるだけ長く一緒に居たいなあ…そう思っています。


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私の人生が、私にとって重たすぎる理由 – 2025年6月18日

精神病院に入院していた期間、私は幾度となくある事項について考えを巡らせていた。つまり悩んでいたのである。

”私って、果たしてこの先、こんな私の人生をちゃんと背負っていけるのだろーか…”と。

現在の私は精神病院からも退院し、以後も治療を続けて割と精神的に回復しているものの、以前の私はそれとは異なり、ほぼ常に何かしらの不安を感じて怯えながら生きていた。けれどそれは、結局のところこの悩みが原因であったように思う。

私が自分の中でこのような考えに至った頃、私はちょうど、精神病院から退院するための根回しを始めていた。というのも、私のいた精神病院では多くの場合、患者が退院できる水準まで回復したとしても、本人が退院したいと自発的に言い出さない限り、医師は基本的にずっと静観するシステムだったのである。

だから、私のほうからに医師や看護師に何度も強く働きかけたり、親からもそのように働きかけてくれるように頼んだり、退院が決まった後も日時などの調整のために親や医師と連絡をとりまくる必要があったり、そもそも普段以上に健康に気をつけておかないと調子を崩したときに退院そのものがおじゃんになるリスクがあったりと、そのときの私の精神的回復度合いにしては、まあまあけっこうがんばらなければならなかったのである。

その最中、私はいつにもまして不安であった。手続きや生活環境の変化など、退院や、それによる変化そのものに不安を感じていたのではない。自分が、退院に向けて急ぎすぎているのではないか、急ぎすぎたせいでまた調子を崩し、これまで積み上げてきたものたちが水の泡になってしまうのではないかと不安だったのである。

自分から退院したいと言い出さない限り退院の準備は始まらないし、退院の準備が始まった後も、こちらから働きかけない限り大した動きはない。つまり、退院に向けた生活と手続きのスピードは完全にこちらに委ねられていたわけである。それが、私にとっては結構なプレッシャーだった。

私の場合、これまでの人生で急いで良かったと思える場面はほとんど存在しない。むしろ、生き急いでしまったためにやらかしまくってきた記憶しかない。今回入院しなければならないほどに調子を崩してしまった経緯だって、いろいろ複雑な理由はあれど、端的に言ってしまえばそういうことなのであった。

生き急ぎすぎるあまり、私はまた、自分ひとりでは抱えきれないほど重たいものを抱えてしまい、ひとり勝手に潰れてしまうのではないか。

”いや、ひとりで何もかも抱えるこたあないじゃんか、他人の手も少しずつ借りながら生きていけばいいじゃないの”とみなさんは思うかもしれない。全くその通りでございます。自分でもつくづくそう思うのであるが、私はどうも、差し伸べられた他人の手をどこまで取って良いのかがわからず、尻込みしてしまうタチなのである。

そりゃあ、”この人の手をここまで取っとけば、自分もある程度楽になるし相手に負担をかけすぎないですむ”だなんてはっきりとわかる人間はこの世に一人もおらんよ。みんな、あくまでもわかったふりをして生きているだけなのである。そんなこたあもうとっくに理解している。

けれど、私には、この”わかったふり”をすることが極めてむずかしい。

これに限ったことではない。私は基本的に、自分に関するすべてのことに対して”見て見ぬふり”が出来ない。どんなにくだらなく、どんなに些細なことでも受け流せないのである。

今考えても仕方のないことだなんて、心の奥底の蔵の中に放り投げておけばいいじゃないか。年月の経つうちにそれがふと腑に落ちることもあるだろうし、一生腑に落ちずに死んだとしてもそれはそれで一興じゃん、そう頭では考えているものの、そこに心がついていかない(いけない)のである。現実に、私の”状態”はあまりうまくいっておらず、どうでもいいようなことに一喜一憂し、常に振り回され、疲れ切っている。

それを繰り返しているうちに、抱えているものがどんどんどんどん増えていく。生きることが、生きていることが、私にもっともっと重たくのしかかってくる。よろめきそうになるけれど、よろめかないようになんとか歯を食いしばって無理をする。しかし、無理をし続けているので当然限界がやってくる、あるときプチッと何かが切れ、その瞬間、私ははっと我に返る。そのときにはもう手遅れである。私はもつれ、倒れ込んでしまう。

これまでの私の人生は、まさにこの繰り返しだった。転んでは起き、転んでは起き、転んでは起き…。とっても苦しかったけれど、繰り返すうちに、苦しむことにもだんだんと慣れてきた。感覚が麻痺したといってもいいのかもしれない。

近ごろ私は、このループにすらだんだんと疲れ始めてきてしまった。けれど、このループをどうやって断ち切れば良いのか、私にはまるでわからない。
というか多分、私はこのループを永遠に断ち切れないであろう。たとえ百万回生まれ、百万回死んだとしてもだ。このループは私という存在の本質だ。何があろうと、私は私以外の何者にもなれない。私の外面や内面をいくら取っ替えることができたとしても、あくまでも”そういう私”になるだけである。私は、人生におけるいろいろな苦しさから、もし逃げようと思えばなんとか逃げることができるけれど、唯一、私そのものだけからは絶対に逃げられない。

だから、これに対する唯一の解決策は、私がこういう私(ループ)を受け入れてしまうこと。大嫌いな私と仲直りすること。私はこれから生きていく中で、自分を否定することなく、”自分のことに関しては見て見ぬふりができない”という、この苦しい性質を受け入れなければならない。

それこそが、自分と仲直りすることこそが、私にとって最も辛く、最も重い。

私が、私の人生に感じている、息苦しい”重さ”の原因のひとつは、たぶん、ここにあるのだ。

元記事投稿日 – 2025年6月18日

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1000のだいすき。

「だいすきを綴っていく。だいすきを結っていく。」を基本コンセプトにし、
だいすきなことや人、もの等を箇条書きで書いていく”1000のだいすき。”への参加企画です。

随時更新中. . .

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地獄

ふと 
消えたくなりました 

ひとまず 
死ぬべきだと思いました 
死にました 

——私が残りました 

身体が不能になっただけでした 
他者が私を存続させていました 

ああ、私は 
自意識を喰らった 
あの女の末裔なのだと 
そのとき実感しました 

私は消えたいので 
他者を消そうと思いました 

けれど 
その方法が 
わかりませんでした 

ひとまず 
殺そうと思いました 
殺しました 

——他者が残りました 

身体が不能になっただけでした 

なんてことだ 

私は 
永遠に 
在り続けるのだ—— 

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幻想素描集Ⅱ – 閉鎖病棟退院以降

私の絵は、基本的にA4のコピー用紙に、0.5mmのシャープペンシルで下書き(素描)を描き、スキャナーでパソコンに取り込んだあと、クリップスタジオペイントで彩色して仕上げています。
そんな制作のはじまりにあたる、シャープペンシルだけで描いた素描たち。
それらは、今思えば――もう二度と帰らない「あのころの未来」に満ちた、静かで幻想的な断片ばかりでした。
「幻想素描集」は、そうした素描たちを少しずつ掘り起こし、まとめてお届けするシリーズです。
絵の変遷や、自分の中にある風景を振り返るきっかけとして、また見てくださる方の心にも何か小さな引っかかりを残せたらと願っています。

「幻想素描集」第Ⅱ弾では、退院してから今現在に至るまでの素描たちをご紹介します。今年の末まで、これから逐一更新していく予定です。

※古いものから新しいものへと順に並べていますが、記憶違いにより多少前後している可能性があります。

セルロイド・トリオ/ローニー・アローン
夜へ
偽りの安息/解剖図
シンボルマーク「鈴蘭」のためのスケッチ
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幻想素描集0 – 閉鎖病棟入院以前

私の絵は、基本的にA4のコピー用紙に、0.5mmのシャープペンシルで下書き(素描)を描き、スキャナーでパソコンに取り込んだあと、クリップスタジオペイントで彩色して仕上げています。
そんな制作のはじまりにあたる、シャープペンシルだけで描いた素描たち。
それらは、今思えば――もう二度と帰らない「あのころの未来」に満ちた、静かで幻想的な断片ばかりでした。
「幻想素描集」は、そうした素描たちを少しずつ掘り起こし、まとめてお届けするシリーズです。
絵の変遷や、自分の中にある風景を振り返るきっかけとして、また見てくださる方の心にも何か小さな引っかかりを残せたらと願っています。

今回は「幻想素描集」の第0弾として、これまでで最も古い素描たちをご紹介します。

昨日投稿した第1弾よりも前――つまり、私がまだ今のスタイルを確立する前に描いていた作品たちです。
改めて見返してみると、自分でも「こんな絵を描いていたんだ」と驚くようなものも多く、絵の変化を実感できる内容になっています。

ただ、正直なところ、当時の記憶がすでに曖昧になっている部分も少なくありません。
今回は、現時点で覚えている作品だけを掲載し、これから整理を進める中で、新たな作品を見つけ次第、順次追加していく予定です。

私自身にとっても、記憶の旅のような感覚でまとめています。
ご覧いただく皆さまにも、時間を越えたひとつの断片として楽しんでいただけたら幸いです。

※古いものから新しいものへと順に並べていますが、記憶違いにより多少前後している可能性があります。

無題
少年のためのスケッチ
少年のためのスケッチ
少年のためのスケッチ
ローリータンク
極楽鳥
少年のためのスケッチ
霽河
婀靈
怪物
衝動
無題
水母
飢餓
ローニー・アローンⅠ – 2024年9月25日
少年のためのスケッチ
天使
停留精巣
男児
無題
無題
無題
無題
無題
鉛色の空
ローニーと林檎
デカダンス・キューピー
ローニー・アローンⅡ – 2024年10月29~30日
筋肉のスケッチ
咆哮のためのスケッチ
咆哮のためのスケッチ
ローニー・アローンⅢ – 2024年11月9日
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幻想素描集Ⅰ – 閉鎖病棟にて

私の絵は、基本的にA4のコピー用紙に0.5mmのシャープペンシルで下書き(素描)を描き、スキャナーでパソコンに取り込んでから、クリップスタジオペイントで彩色して仕上げています。
今回から、そんな素描たちを「幻想素描集」と題してまとめていくことにしました。
第一弾としてお届けするのは、昨年の暮れから今年の2月頃まで、精神科病院に保護入院していた時期に描いた作品たちです。保護室の中、クリアファイルを下敷きにして、ベッドの上でコツコツと描いていました。
できるだけ古い順に並べましたが、記憶違いで前後している可能性もあります。その点はご了承ください。

西岡兄妹に影響されて。彼らの漫画の中には、私の琴線に触れるシチュエーションが多くあるのです。このときは、ちょうど”地獄”を読んだところでした。
”双生児”の素描。半日くらいかけて一気に描きました。西岡兄妹の”ソーセージになった男の話”を読んで、たまらなく描きたくなったので。私の絵のインスピレーション元は、その半分近くが西岡兄妹です。
奴等は、ぼくをを通じて、自分の幹から一本の枝を天空に向かって延ばしたいという愚かな考えしか持っていなかった。
心の悲しみ。醜い内臓は、己の本質の象徴である。
いろいろな少年たち。多様性の宝庫。
手芸ワゴン。
そんなふうにしても、糸電話は聞こえませんよ。
神は死んだ。いやほんと。
翳りのある少年が好きです。
左下にいるのは、私の中のアダムとイブです。イブ(メデューサ)が、アダムの首根っこを掴んで、知恵の実を無理やり食べさせようとしているところ。
上の人形は「ざくろのように割れた下腹」をイメージして描いたもの。左下の少年は、まさに自分の中の”夢の人”の意味合いとマッチしていてお気に入りです。
妊婦の死の悲しみ。
様々好きなように描きました。
左下のトラベルクロックがお気に入りです。右上は餓鬼。
十コママンガを描こうとして挫折したもの。
透明で静かな雰囲気の少年たち。このころには退院の目処が立っていたように思います。ポーズは主に、古内東子さんのアルバム”Strength”の素敵なブックレットを参考にしました。
漁船の氾濫。
ベティちゃんは永遠の名アクトレス。
思いつくままに描いたもの。右下のそれは赤いネオンの風車(になる予定だった)。
内藤ルネさんの自伝『すべてを無くして』を読んでいた頃に描いたものなので、ところどころそれっぽいです。
名刺のデザイン。
SAVE OUR SHIP
夢と現の境界
入院中に描いた最後の素描。退院の三日前くらいまで描いていたと思います。左上は(私の幻想のなかの)不死鳥です。左下はピエロ。右上の少年はアンニュイな感じがお気に入りです。
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夜 明 け よ 急 げ ! ! – (誕生日の)夜があって、夜に沈んだときの雑記 – 2025年5月3日

夜 明 け よ 急 げ ! !

眠れない

ずっと頭が張り詰めている 痛くははりつめている。

やぶれそう。こわれそう。

怖くなってナロン錠とサワイを飲んだ

勉強しなきゃいけない 絵を描かなきゃいけない 運動もしないといけない 家族の前では愛想笑いしなきゃいけない 

私のことを本当に知っているのは私しかいない

やることが 私の流れが多すぎる

足りない時間が足りない身体が足りない心が足りないすべて足りない急げ急げ急げ急げ急げ

私は私のままでいたい 私は私を確認したいのよ そのために生きてるの

誰か助けて

夜は呪いだ 私は夜に呪われているのだ 夜はわたしを迫害する わたしは夜を愛撫する

わたしが止まらない 歯車がどんどん空回りしていく わたしはわたしを止められない

辛い なにが 生きることが

死にたい 死んでおしまい





誕生日の夜にこのしまつさ

親を呪いたいぜ ほんとさあ



私を喰らって 全てを忘れて

私は虚無に帰するのだ

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あなたはあなたのままでいて – 創作で行き詰まったときは

スナップ写真のような「アイデア」

私の頭の中には、いつもぼんやりとした“何か”が渦巻いている。だけど、それに明確な形や色を与えようとすると、途端に難しさが立ちはだかる。それでも、突如として思考がひらめく瞬間がある。それが、たぶん「アイデア」と呼ばれるものなのだと思う。

私の場合、その“アイデア”が降ってくるのはせいぜい一日に二、三個きり。しかも、たいていは作品に仕立てるには中途半端で、不十分だ。数日間、あるいは一ヶ月以上なにも降ってこないこともあるし、逆に一日に何個も湧いてくる日も稀にはある。でも、それはまさに“稀”なのだ。

本来、私たちの中にある“何か”は、はっきりと輪郭を持ったものじゃない。混沌としていて、絶えず流れ、形を変え続けている。だからこそ、それを丸ごと記録することなんて不可能に近い。アイデアというのは、その流れの中から偶然すくい上げられた、一瞬の光景なんだと思う。まるで、無限の奔流の中で、たまたま切り取られたスナップ写真のように。

だから、もし「もっとアイデアが欲しい」と思っているなら――抽象的な話になるけれど――自分をよく知ること、しかないように思う。日常的にメモを取るとか、観察を続けるとか、方法はいろいろある。でも、結局どれも、自分を見つめ直す過程の一部に過ぎない。

ただし、それは決して楽な道じゃない。私自身、自分と向き合う過程でたくさんの苦しみを味わった。自殺未遂や精神病院での生活も経験した。私は、自分の中にどうしても受け入れられない部分を抱えていた。たとえば、同性愛者であること、人との関わりがうまくいかないこと、容姿へのコンプレックス、そして社会に適応できないこと。それらを許せなかった私は、自分を徹底的に追い詰めた。けれど、その末に治療を受け、自分を一から見つめ直すことで、少しずつ自分を受け入れられるようになった。

その変化は、創作にも現れた。かつては「描かねば自分が壊れる!」という強迫観念から絵を描いていた私が、いまでは「描きたいから描くんだ!」と、素直な動機で筆を取れるようになった。それが本当に嬉しい。

子どもの頃、私は「絵に意味なんていらない」と思っていた。楽しいから描く、それだけで良かった。でも成長するにつれ、エネルギーが枯渇して、絵を完成させるには“意味”を求めざるを得なくなった。それは悪いことではなかったし、意味を持たせた創作も素晴らしいと思う。ただ、今はもう一度原点に戻れた。周囲の目や評価なんて関係ない。ただ、描きたいから描く。表現したいから表現する。それだけで、いい。

もちろん、創作に意味づけをする人たちを否定するつもりはない。彼らのやり方もまた尊い。どちらが優れているかではなく、自分がどの地点に立っているかを理解することが大切なのだ。

だから、あなたも自由に描けばいい。世の中には、裸を性的な目でしか見られない人や、その表現の意図を理解しようともしない人たちがいる。でも、彼らにわざわざ迎合する必要なんてない。あなたの作品を本当に理解してくれる人に向けて、あなたのままで届ければいい。

「この世のすべての創作は、誰かの二次創作だ」という言葉を耳にしたことがある。たしかに、私たちの表現は周囲からの影響を受けていて、完全な“自分だけのもの”なんて存在しないのかもしれない。だけど、その影響をどう取り込むかは自分次第。古典を吸収し、呪縛すら乗り越えて、あなた自身の表現を紡ぎ出せばいい。

あなたはあなたであり、それ以上でも以下でもない。誰かのコピーではない。だから、爆発していい。魂のままに、描いていい。その自由こそが、あなたの芸術なのだから。

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戦争 – 2025年3月27日

夢の中の「俺」は、現実の「私」とは少し違っていた。

頼りなく、臆病で、女々しい――それが現実の私だった。
けれど、夢の中の「俺」はもっと普通で、もっと男らしかった。
それが憧れだったのか、恐怖だったのか、その両方だったのか――自分でも分からない。
「私自身」でありながら「私ではない」誰かだった。ただ、それだけは確かだ。

夢の中で、俺は戦争のただ中にいた。

だがそこには、戦争の実感がなかった。
銃声も、血の匂いも、叫び声もない。
ただ、静かで、冷たく、乾いた風が吹いていた。

戦場は無音だった。
透明な狂気と、乾いた静寂だけが、世界を支配していた。

『これは、人類最後の戦争だ』

誰に言われたわけでもない。最初から知っていた。
人類という怪物が、自らを食い尽くすために用意した、壮大な自殺の儀式だった。

空には未来的な乗り物が音もなく飛び交い、地には無数の兵士たちが、機械のように歩いていた。
けれど、それらはどれも、戦争というにはあまりに無機質で、空虚だった。

どんなに巨大な兵器も、輝かしい技術も、ただの飾りだった。
攻撃手段は、すべての人間に平等に与えられた拳銃一丁。
どれほど敵を追い詰めても、最期は必ず、自らの手で相手を殺さねばならなかった。

人々は二つの陣営に分かれ、俺はその一方に属していた。
撃ち、移動し、また撃つ。ただそれだけの日々。
怒りも悲しみも後悔もない。誰もが、感情を捨てていた。

俺一人を除いて。

俺だけが、この世界に違和感を覚えていた。
この戦争に迷い込んだ異物――俺は、異邦人だった。

そんな俺にとって、唯一の希望があった。
かつてインターネット越しに言葉を交わしたことがある、彼の存在だった。

夢の中でも彼とは一度も会ったことがなかった。
ただ、あのころ交わした短い言葉の数々が、自己が崩れかけていた俺を、何度も救ってくれた。

『僕は死にたいわけじゃない。ただ、君と一緒に、生きてみたいんだ。』

それだけのやり取りだったのに、不思議と分かっていた。
彼もこの世界にいる。俺と同じ陣営に属し、そして同じように、この世界に違和感を覚えていると。

彼の存在を思うだけで、無感情な世界に、たったひとつの感情が芽生えた。

――希望だ。

彼に会いたい。
会えたら、この世界からふたりで逃げよう。
それが無理なら、ふたりで死のう。
それでいい。
それで、いいんだ。

そしてある日、戦争は終わった。

俺たちの側が勝ったのだという。
だが、誰も喜ばなかった。
この勝利すら、人類滅亡の序章にすぎなかった。
いずれ、俺たち自身が、互いを殺し始めるだろう。

雪が降っていた。
白いのに、寒さのない雪だった。
音もなく、ただゆっくりと世界が死んでいく。

雪山の中のロッジに、俺はたどり着いた。
人影はまばら。誰もが無表情で、まるで石像のようだった。

しかし、ただ一人だけが、微笑んでいた。

彼だった。

俺も、自然と微笑み返した。
胸の奥から、何かが込み上げてくる。

ようやく――会えた。

彼は、ゆっくりと俺に向かって歩き出した。

その瞬間だった。

彼は崩れ落ちた。
血が、静かに床に広がっていく。
身体に触れる前に、その温もりは失われていた。

何も言えなかった。
喉が張り裂けそうだった。
心が、叫んでいた。

振り返ると、ロッジの入り口に、一人の敵兵が立っていた。
たまたま生き残っていた、最後の一人だった。

俺は、反射的に両手を上げた。

撃たれた彼のもとに、駆け寄れなかった。
いや――駆け寄らなかった。

なぜか?

簡単だ。俺は、自分を守った。
彼よりも、自分の命を選んだのだ。

その事実が、これまで経験してきたどんな出来事よりも俺の心を貫いた。

これまで、俺は「自分は周囲と違う」と思っていた。
無感情な群衆とは違い、自分には「心」があると。
俺は、群衆共を見下していた。
傲っていたのだ。

だが――

彼を見殺しにした俺と、心を持たない群衆に、どれほどの違いがある?

むしろ、心なき群衆の方が誠実ではないか。
愚劣な欲望すら持たず、ただ運命に従っていた分だけ。

本来なら、俺は泣き叫び、彼に駆け寄って、一緒に撃たれて死ぬべきだった。
それくらいの誠実さを、示すべきだった。

本当は、好きだったのに。

本当は、彼のことが、ずっと好きだったのに。

それすらできなかった俺は、ただの卑怯者だ。

醜い自我だけを抱えたまま――

俺は、本当の意味で、たった一人になった。

――気づけば、目を覚ましていた。

クロス張りの天井、カーテン越しにうっすら差し込む灰色の光、汗に濡れたパジャマの、ぐっしょりと濡れた感触。

それらすべてが、やけに現実的で、やけに空虚だった。

うっすらと、涙が滲んだ。

息をするのが苦しかった。

夢だったのだと、頭では分かっているのに、胸の奥には、何か鋭利なものが突き刺さったままだった。

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