私のシンボルマーク、作っちゃいました。

ずっと前から、「自分だけのシンボルマークを作りたいな」「いつか作らないとなぁ」と思っていました。
それは、もう何ヶ月、もしかしたら何年も前から。それどころか、下手をしたら人生単位で、です。気づかないうちに、ずっと心のどこかで考えていたのかもしれません。
でも、なかなか手が動かなくて、なんとなく腰が重いまま、ずるずると時間だけが過ぎていってしまいました。

でも、やっと昨日の午後、なにかがふっと降りてきて。
「あ、今日だ」と、急にスイッチが入っりました。午前中はまだぼんやりしていたんだけれど、午後になってから、急にやる気が出てきたんです。

シャープペンシルでラフを描いて、それをパソコンに取り込んで、それを見ながら「あっちがちょっと大きいかなあ」「ここはもうちょっと優雅にねえ」なんて、自分とおしゃべりするみたいに、ちまちま調整しながら描いていたら──

気がついたら、その日の夜にはもう完成してしまったのです

あれだけ悩んでたくせに、びっくりでしょう? 一番びっくりしたのは私でしたが。ほんとうに、人生って皮肉なものですね。

もう見ていただけましたか?

今はもう、SNSのアイコンも、サイトのロゴもぜんぶ、この新しいシンボルマークに差し変えてしまったので、見てくれた方もいらっしゃるかもしれませんね。

これからは、このマークを、わたしの作品すべてにぺたりと貼り付けていく予定です。つまりはサインの代わり。デジタルの作品にはもちろん、もしかしたらアナログの作品にも。油絵やスケッチなんかにも、ステンシルか何かで、ちょこんと入れてみたいなって、そんなふうに考えているんです。

「一生使える」がテーマだから、手は抜きませんでした

今回大事にスべきテーマは、私の内にも外にも腐る程ありました。けれど、結局のところはこういうことなんです。「ロマンチック」、「上品」、「一昔前の優雅な女性らしさ」。要は、「乙女」、乙な女ということ。私の、永遠の憧れなんです。乙女って。

そして、なによりも「これから長く使えること」というのが大事でした。そう簡単に使い捨てる気なんてないんです。私の象徴たる作品ですから。

だから、少しでもイメージと違うと「うーん、違うなぁ」と思ってやり直し。妥協は一切せず、すべて、自分の自意識に従ってやりきりました。

実は、資生堂の“花椿”に、ちょっと憧れていたんです

皆さんは、資生堂の「花椿」ってご存知ですか?

あの美しいシンボルマーク、わたし、ずっと大好きだったんです。

今回のわたしのマークも、ちょっとだけその雰囲気に近いところがあります。けれど、もちろん全部一から描きました。著作権のこともありますが、それよりなにより、「世界にひとつ、本当に自分だけのマークがほしい」と、ずっと思っていたからです。よーく観察して、イメージを咀嚼しつつも、あくまで自分のスタイルに落とし込みました。

実際の花椿と比較してみると、ほら、枠がちょっと八角形っぽいでしょう?あれも実は、資生堂の昔のパッケージにインスピレーションをもらっています。大正時代の「七色粉白粉」のパッケージなんて、見ているだけでうっとりしてしまうほど素敵なんですから。“SHISEIDO”じゃなくて、漢字の「資生堂」ってところが大事です。あの時代の女性の品には、今とはまた別の魅力があるなぁって、感じ入っています。

Gペン一本勝負!初めてのチャレンジ

今回のマークは、Gペン一本で描きました。もちろん作業はデジタルですが、細い線で丁寧に描くことにこだわりました。

でも、これが初めてで、なかなか大変だったのです。最初はいつものように、リズムよく”サッ、サッ、サッ”とした感じで描いていって、ふと手を止めて絵の全体を見渡してみると、その貧相で冴えないこと。しかも、実際に使用される想定のサイズまで縮小してみたら、ますます貧相で冴えないし、おまけに安っぽい。愕然としてしまいました…。

「ああ、これじゃないな」と思って、一旦全部描き直すことに。

そのときに思い出したのが、わたしの大好きな漫画家・宮西計三先生の画風でした。

私は宮西先生の漫画はKindleでしか買ってない(高くて実物を買えてない)のですが、これがまた、スマホの小さな画面でもその美しさがしっかり保たれているのです。拡大しても美しいことは言わずもがなで、目標とすべきはこれだってはっきり思いました。

それで、全部のパーツをひとつひとつ、Gペンの細い線でじっくり描いていったのです。そうしたらこれが、思っていたより楽しくて。自分(の作品)と真摯に向き合えるって、人生において、結構幸せなことだったんだってわかりました。

“幻想の鈴蘭”という、わたしだけの花

あのマーク、もちろん鈴蘭ではあるのですが、よく見なくても、ちょっとメルヘンっぽいというか、非現実的というか、改変されすぎていて、現実の鈴蘭とはだいぶ異なっています。

というのも、わたしの中の鈴蘭のイメージに極限まで近づけた結果、こうなったのです。結果的に”鈴蘭”ではなく”鈴蘭のようななにか”になってしまったけれど、そもそも、それが狙いでもあったのです。

つまり、”現実の鈴蘭”ではなく、”幻想の中の、理想化された(言うなれば歪んだ)鈴蘭”ということです。

この”歪み”は、私の作品の根幹に関わるテーマなので、含めることができて良かったと感じています。

”模倣”だったら誰にでもできてしまうし…。私らしい鈴蘭にできて、よかったと思います。

実は、不死鳥や葡萄も候補だったのですが…

最終的に鈴蘭に落ち着いたけど、最初は「不死鳥」とか「葡萄」とか、他にも候補は色々ありました。

けれど、今のタイミングでは、鈴蘭が一番しっくりきたのです。

詳しいことは、トップページの”シンボルマークについて”の欄を読んでくれたら嬉しいです。

とはいえ、あれらのモチーフたちも大好きで捨てがたいので、“サブマーク”としてそのうち出てくるかもしれません。

その時は、またここでご紹介させてほしいな、って思います。


というわけで、この新しいマークと一緒に、これからも、わたしのできる範囲で作品づくりを続けていくつもりです。どうぞ、よろしくお願い致します。

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人生に疲れたなら、さあ、レッツ逃避行。 – 2025年4月26日

現実と幻想が曖昧になった空間。つまり、妄想が好きです。

それはたしかな逃避行に変わりないのですが、そもそも、人間の人生というのはすべてが逃避行だと、私は思うのです。

生きることに面と向かって向き合うのが怖いから、どれだけ嫌なことがあっても、なんだかんだで生き続けてしまうのです。

ほんとうに生きることに向き合って、どんどんクオリティーの高い生き方を突き詰めていくと、どんな人間でも、最終的には自ら死ぬことになってしまいます。

実は、死ぬというのは人生のクォリティーの部分だけを考えればとてもかしこい選択で、それとは逆に、生きることというのは、とても馬鹿馬鹿しい選択なのです。

それなのに、世の中の多くの人達は、私に生きることを要求してきます。

物心のついてからずっと、何も考えずにちんたらちんたら生き続けている自分たちの愚かさに向き合うのが怖くて、そこから逃げるために、自分たちと同じような逃避仲間を増やしたがっているのです。

そして、私も、そういう人々にささやかな反抗を繰り返しながらも、今現在、結局は生きることを受け入れてしまいました。

これでまた一人、この世界に愚者が増えてしまったことになります。

今なお世界では、賢者の増え方以上に愚者の増え方のほうが凄まじいので、総人口は増え続けるばかりです。

けれど、じゃあ私が”そういう人々”と完全に同化したのかといえば、違います。

私は、生きることを受け容れましたが、それと同時に死ぬことも受け容れたのです。

そして、それは他者に対しても同じです。

私が”そういう人々”と違うのは、決して”生きること至上主義”ではないという点においてです。

同時に私は、”死ぬこと至上主義”でもありません。

はっきり言って、生きること、死ぬことはくそくらえです。

どっちだって、なんとかして価値を見出そうと頑張っている人々が多いけれど、そんなものはあくまでも思い込みであって、生きることも死ぬことも、本質的にはさっぱりするほど無価値です。

だから、この世界でだれが自ら死のうとしたって、それを止める権利は私にはありませんし、はなから止めるつもりもありません。

どれだけ身近な人間であっても、それは変わりません。

生きたければ勝手に生きればいいし、死にたければ勝手に死ねばいいのです。

つまり、生きることと死ぬことに、本質的な価値の違いはないということです。

究極の、”価値の相対化”です。

そう考えるようになってから、私は、辛くて辛くてたまらなかった生きることが、そんなに辛くなくなりました。

肩肘を張ることなく、お気楽に生きることができるようになったのです。

生きることと死ぬことが無価値であることすら、受け入れたのです。

それを受け入れないと、いつまでたっても私の人生は虚無感に満ちたものだったでしょう。

虚無感というのは、それを受け入れないから感じるものなのです。

虚無感を受け入れることができれば、もはや虚無感は消失します。

すべてを受け入れる、どうでしょう。

これこそ、まさに逃避行、人生そのものではありませんか。

元記事投稿日 – 2025年4月26日

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こんにちは。社会不適合者です。 – 2025年3月26日

いつ頃だったか定かではない。

けれど、物心がついてからそう遠くない時期に、私は、“自分=異分子である”と、つまり、“自分=社会における外れ者”であると、ふいに自覚したのだ。

そのように自覚するに至った表向きの理由は、“自分が同性愛者で、周囲が異性愛者であるという、自分と周囲の間の(私にとっては)大きな相違の一つに気づいたから”だったのであるが、そんなものはあくまでも表向きの、後付けの理由に過ぎなかった、と今では思っている。

真実は簡単には目に見えない、もっとずっと深いところにあって、そのブラックボックスの中身すべてを見ることは、たとえ私本人であっても不可能なのだろう、と感じている。

けれど、それでも、私というブラックボックスの中身の、出来る限り多くを把握していたいと、そのために、出来る限り広い視野を保っていたいと、私は思う。

問題をセクシュアリティだけに矮小化すると、その範囲外の、本来見えていた筈のものが見えなくなってしまうような気がして、自分で自分を取り逃しているような気がして、嫌になる。

けれど、そんなのは甘い理想でしかなくて、実際の私は、自分の抱える心理的な問題の多くを、自身がセクシャルマイノリティであることのせいにして片付けてしまっている。

だって、そのほうが楽だから。

本来自分自身で抱えるべき問題であっても、それを放り出して他の誰かや何かのせいにしておけば、つかの間は楽になる。

勿論、そういうふうに誰かや何かのせいにした分だけ、その先の何処かで手痛いしっぺ返しを喰らうことにはなるだろうけれど。

だいぶ話がそれてしまったが、話題を異分子感に戻そう。

きっと、この“異分子感”を感じたことがあるのは、私だけではあるまい。

今でもそのときのことを覚えているかは別として、世の中のすべての人々が、生まれてから少なくとも一度は感じたことがあるはずだ。

それは、どんな人間だって、社会という枠組みにおいては、最初は異分子だからだ。

多くの人々は、やがて社会に溶け込んでいく術をなんとかして覚えていくものだから、この“異分子感”を感じたときのことなんて覚えておく必要も無いだろう。

むしろ忘れてしまった(正確には、自らその記憶を封印して、その封印の存在すら忘れてしまった)ほうが、社会生活を送るうえでは何かと都合が良い。

けれど、ある時、何かのはずみに、自分がかつて自分自身に施した封印の存在を再発見してしまって、その存在が四六時中脳裏にへばりついて離れなくなってしまった人や、もはや最初から封印のしようがなく、常に異分子感が脳裏に溢れ出している人(注:私のことです)は危険である。

このような、“異分子感を拭いきれない人間”には、もはや安寧は訪れない。

一度社会に適応できたつもりになっても、そう時間のかからないうちに、自分の中にわだかまる違和感から目を背けられなくなり、社会から転落していく。

その衝撃を全身で受けてしまって、もう再起不能に陥ってしまう人もいれば、そこからなんとか這い上がり、社会の中のまた別の場所に登っていく人もいるだろう(一度転落してしまうと、以前と全く同じ場所にはどうにも登れなくなってしまうものである)。

けれど、何回登ろうが同じこと。

結局、また何処かで転落し、またその衝撃に打ちひしがれ、しばらくの後にまた放浪の旅に出なければならなくなる。

そう、私たちは死ぬまで放浪者だ。

私たちは、きっとこの異分子感を拭えない。

多くの人間が社会に適応して異分子の枠組みから脱却していく中、我々はずっと異分子のままなのだ。

ごく少数かもしれないが、そういう人間も世の中には一定数いて、私もその一人である。

常日頃から己の輪郭の定まらなさに血反吐を吐くほど苦しみ、自分なんて自ずから構築していくものであると理解していながらも、愚直な自分探しに走ってしまう私であるが、この、“私は永遠に、異分子である”という感覚だけは、物心がついた時から、はっきりとした輪郭を維持し続けていて、全くぼやける気配がない。

むしろ、以前よりもっとずっとはっきりしてきたように思える。

というか、もはや、今の私に残ったものはこれだけだ。

こんなろくでなしの私が自分自身に対してはっきりと確信できる事柄なんて、これ以外に何があるだろうか。

話は変わるが、全ての人間に対して必ず与えられるといわれる”死”の概念に対してすら、私は、”私はいつか必ず死ぬ”という確信を抱けていない。

そもそも私にとって、”死”とは”無”だ。

自分という存在がブラックホールのような無に吸い込まれて、跡形もなくきれいさっぱり消える。

そこでパタリと全てが終わる。

それ以降は何もしなくていい、何も感じなくていいいという最高の救済、それが私にとっての”死”という概念なのだ(こういう極端な考えに走るのは、私にとっては死後の世界(無)より、生前の今のほうがよほど地獄だからだ)。

しかし、私が死んだとしても、私の近縁者は、私のことを覚えているだろう。

もし近縁者が一人もいなかったとしても、生前に出会い名を交わした人々の内、何人かは私のことを覚えているかもしれない。

いや、もしもこの世の誰も私の名を知らない状態で私が死んだとしても、「通りすがった人」「レジの前にいた人」「あそこの部屋に住んでいた人」などとして、もう本人が一生思い出さない(思い出す必要がない)ような、脳髄の奥深くには刻み込まれているのではないか…。

話は何も、このような他者の領域に限ったことではない。

例えば、私があの日蹴ったあの小石、あの小石は、今でも私が蹴ったあとのあの場所にあるかもしれない。

あるいは、また別の誰かが蹴って移動したかもしれない。

道路工事で掘り起こされて、地中深くに埋められたかもしれない。

洪水によって流されて、あちこちにぶつかって、形が削れて変わっているかもしれない。

あるいはもう粉々になって、小石の体を成していないかもしれない。

けれど、そのすべての道筋の前段階に、”私が小石を蹴った”という動かしようのない事実がある。

これがなかったとしたら、今の場所に小石(あるいは小石だったもの)は無い。

同じ名称の道筋を辿ったとしても、その道筋は、”私が小石を蹴った”場合の道筋とは、全く異なるものだ。

小石に限ったことではなく、この世界のすべての物質、すべての原子は、これまで生まれ死んでいったすべての生物が関わったからこそ、今まさにその場所に存在しているのだ。

この世界の沿革は、それらすべての生物によって地層のように積み重なっている。

もちろん、その中に私も、あなたもいる。

けれど、その地層は未来永劫不変である。

一度積もった私の痕跡は、永遠に消えることはない。

…と、これ以上はキリが無くなるのでやめておくが、つまり、私にとっての”無”の真の意味とは、”私の痕跡のすべてをこの世界から消すこと”、つまり、”私なんて最初から存在しなかった世界線にする”ことなのである。

もちろんそんなことが絶対に不可能なのはわかっているし、第一、今の私は流石にそこまでの”無”は希求していない。

老衰であれ病気であれ自殺であれ他殺であれ、普通に死ぬだけで十分満足である。

だからこそ、”生きている間に満たされることがなくても、死ねばきっと満足できる”という小さな希望が、現段階では私の胸にあるのだ。

しかし、私はある可能性を危惧している。

なにせ、今もまさに、私の自我は、自己愛性は、ナルシシズムの器は肥大し続けているのである。

これがもし、単に死ぬだけではたどり着けない領域に、真の無に、自分が最初から存在しなかった世界線に、つまり、何をどうしようが絶対にたどり着けない領域にまで肥大してしまったとしたら…。

そう、その時点で、私は真に絶望する。

”生きている間は、私は私を、ナルシシズムの器を満たせないだろう。それでも、死にさえすればそれも満たされる。死は誰に対しても必ず訪れるのだから、私もいつかは必ず満たされるときが来るだろう”という最後の希望が潰えてしまうことになる。

そうしたら、私にとってこの世界は真の地獄である。今の時点でも十分地獄だと思えるが、これがまだ序の口であることを、地獄の谷はもっとずっと深いであろうということを、私は肌身に感じて怯えている。

現時点では、私のナルシシズムは”ちょっと並外れ”くらいに留まっているので大丈夫そうである。

しかし、この醜い自我がこの先も現状を維持できる、あるいは先細りしていけるとはとても考えられない。

やはり私は、この地獄の谷の更に下へ、深淵へ堕ちていくしかないのであろう。

もしもそうなったら(たぶんそうなるので)、私はその状況をできる限り細やかに書き留めていきたいと思う。

私のように、底なしの地獄へ堕ちていくしか道のない人々と、私自身に向けて。

以上の文章は、私がどうしようもなくなって閉鎖病棟に保護入院していた頃、ノートに書き付けていた日記です。
どうしても眠れない夜、ベッドの上で、常夜灯の僅かな明かりだけを頼りにグシャグシャに書き殴っていたものです。
当時の私は色んな意味で八方塞がりで絶望的な状況でしたが、現在は、心身ともに少しずつ快方に向かいつつあり、退院して自宅療養しています。
精神の病気って、なかなか良くなるのは難しいし、万が一どれだけ良くなっていったとしても、完全に治ることって、多分ないのだろうと思っています。
一万分の一の確率でで”治った”といえる状態になったとしても、正確には、”治った”というより、”とりあえず一旦、影を潜めてくれた”のほうが適切でしょう。
きっと、周囲もあなたも、一生付き合っていかなければならない存在なのです。
それでも”きっと大丈夫”なのは、何度も何度も失敗していく中で、否応なしに私達は学んでいくから。自分の病気とうまく付き合えるようになっていくから。
病気と、面と向かって向き合えるようになっていくから。
だんだん、自分のことを許して、受け入れられるようになっていくから。
腸をえぐられて塩を塗られて縫合されるように痛かったのが、だんだん、無痛になっていくから。
もちろん、どれだけうまくやったとしてもそれなりの時間はかかってしまうけれど。
だからこそ、もしもあなたが辛いときには、周囲にできる限りの助けを求めて、自分がそのときできる限りのことをしたが最後、どうか、時が流れるのを、ただただじっと、ゆっくり待ってほしいのです。
時の流れはすべてを解決するわけではありませんが、大抵のことを解決してくれます。
それからもう一つだけ、あなたに伝えたいことがあります。あなたという人間にとって、きっと最も難しい行いであろうことを、無責任で傲慢でうぬぼれた意見だということを承知の上で言わせて頂きます。
どうか、自分のことを大切にしてください。
使い古された言葉ですが、ご自愛ください。
それが、あなたや周囲の人たちの、ささやかな幸せにつながります。
自分のことを大切にできない人は、周囲の人たちのことも大切にできないのですから。
これが、私が病気になって、いちばん身にしみて実感したことです。
どうか、あなたと、あなたの周囲のみなさんに、ささやかな、けれどとびっきり愛おしく美しい日々が訪れますように。
長い間お付き合いくださり、本当にありがとうございました。
それでは、また。

元記事投稿日 – 2025年3月26日

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西岡兄妹の作品に見る、鬱と人間の安寧 – 2025年3月25日

西岡兄妹(にしおか きょうだい)は、兄・西岡智と妹・西岡千晶による、漫画家の合同ペンネーム。 三重県津市出身。 西岡千晶は大学時代に染色を専攻していた。フランツ・カフカの影響が濃い兄による物語(ネーム)と、刺繍細工のような妹の作画とで、独自の世界を築いている。

西岡兄弟 プロフィール - スパンアートギャラリー

鬱とは、端的に言ってしまえば脳のエネルギー不足である。

あまり普段意識することはないかもしれないが、人間の脳とは、摩訶不思議な未知のブラックボックスなんぞではない。

ただの精密につくられたコンピューターシステム、機械に過ぎないのである。

その本質は、私たちがいつも使っているパーソナルコンピューターと、実はそんなに変わったものでもない。

機械なのだから、エネルギーが枯渇すれば満足に働けない。

ある程度のエネルギー不足に陥れば、当然それと同程度の機能停止に陥る。

私たちの脳の場合は、表層部から徐々に、深いところへと機能停止していくようになっている。

この「脳が、エネルギー不足によって、表層部からある程度深い部分まで機能停止に陥った状態」が、俗にいう“鬱”状態なのである(と、私は勝手に思っている)。

ここまでウツウツ喚いていることからお察しの通り、私は精神疾患、恐らく双極性障害を抱えている。だから時折、自らの意思と関係なく鬱状態になる。

そのとき、私の脳の表層部から中層部にかけての機能が停止し、普段は隠されている深層部が露わになる。

普段から、常にその存在にはうっすら気づいていながらも、その上を渦巻く混沌とした思考の流れによって隠され、半ば存在を忘れさせられていたそれが、私の中に顔を出す。

西岡兄妹がその作品の多くで描いているのは、人間にとって普段は隠されている、この“深層部”なのだと、私は思う。

だから、西岡兄妹の作品には、理屈を求めることが出来ない。そもそも、人間から思考そのものが取り除かれた状態を描いているのだから、そこに理屈が存在するわけがない。

そこにりんごがあれば、それをそのまま描く。

そこに胎児が埋まっていれば、それをそのまま描く。

そこに卒塔婆が立っていれば、それをそのまま描く。

そこに連なっているものを、存在しているものを、そのまま描き連ねているだけ。

それがそこに存在しているという、純粋な“それ”の重みだけが、私という存在にずっしりとのしかかってくる。

元来、私にとって、人生に安寧なんてものは存在し得なかった。

私の中に広がる混沌は激しく変化し続け、その不安定さに、言うなれば、私という存在そのものの不安定さに私は恐怖した。

束の間だけでも私を確たるものにしたい、安寧を得たい(つまり、私の中で、ある状態が継続する期間を少しでもつくりたい)と無理にもがき続けたあまり、躁状態と鬱状態が交互に訪れる双極性障害に罹患してしまった。

精神科に保護入院して何日か経った後、鬱状態の中、閉鎖病棟の冷たい保護室で、改めて彼らの作品を開いた。

そこで、初めて気がついた。

私は、自分の中に確たるものが欲しいあまり、苦しみ、彷徨い続けてきた。

けれど、私を苦しめ続けてきた混沌の下に、それは、いつもずっとあったのだ。

それは、「常に彷徨い続ける“私”という存在だけは、確実に存在し続けている」という、ルネ・デカルトの提唱する命題にも通ずるような、“私“という存在そのものの確実性と、重みだった。

混沌の消えた、私という虚無の中に、それがある。

西岡兄妹の作品の中に、それがある。

私がそれを見失いそうになったとき、私は、西岡兄妹の作品を通して、それの存在を再確認できる。

私が西岡兄妹の作品に触れている中で感じる、諦念にも近い安心感は、ここに起因するのかもしれない。

もはや、“読む”という言葉で表すには些か異質な状況である。

『自選作品集 地獄』のあとがきにおける大下さなえ氏の言葉の通り、“体験”という言葉がふさわしい。

私たちは皆、彼らの作品を読むことは出来ない。その中に入って、体験するしかない。

そして、その“体験”が、鬱状態の私には、出来てしまった。無意識の内に、彼らの作品の中に入って、生きていた。

私がこれまでしてきたことは、そういうことだったのだ。

私は決して、西岡兄妹の作品を誰かに薦めたくてこれを書いたわけではない。

解説がしたかったわけでもない。

ただ、西岡兄妹の作品を通して私がしてきた体験の多くが、今では私という存在にとってかけがえのなく、とても素敵なものになったということを、これを読んでくださったみなさまと共有したかった次第である。

西岡兄妹の作品があったから、私は今、ここにいる。

そして、こうした鬱状態の際に唯一読む(読むに耐えうる)本が、西岡兄妹の作品群なのである。彼らの作品は、人間の無意識の内容物を、深層心理を、沈むような夢の中を描いている。そして、鬱というのは、私の心理の表中層部が一時的に停止するとき、つまり、彼らの描いている心理の深層部に私が限りなく近づときなのである。であるからして、私は、鬱のとき、彼らの作品群に、とても深いシンパシーを感じずにはいられないのである。それはやはり、人間としての、ひとつの安寧のかたち、「救いなどどこにもない」という、ある種の諦念のかたちなのある。

私が閉鎖病棟に入院していた頃の日記より
所有している単行本

トップ画像:夜(単行本 『ぼく虫』収録)より

西岡兄妹:https://www.ztv.ne.jp/bro-sis/

-西-岡-兄-妹-www.ztv.ne.jp

元記事投稿日 – 2025年3月25日

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【過去の日記】むかしの絵と、思い出と。(水彩、色鉛筆) – 2025.02.27 20:15

まだ、将来への期待と不安で押しつぶされそうになっていた中学生の頃。
純粋に好き、楽しいという気持ちよりかは、日々の不安から逃れるために、逃避手段の一つとして、以前からそこそこうまかった”絵を描くこと”に執着していました。
学校の美術部(その実態はほぼ自堕落なイラスト・マンガ・アニメ同好会だったけれど、みんなが純粋に好きなものを見せあいっこして共感している空間で、楽しかったな)に所属するだけでは飽き足らず、両親にお願いして、近所の生協でやっていた絵画教室に通っていました(子どもむけの教室だったので、私と弟以外はほぼ、幼稚園や小学校低学年の子達でしたが)。
先生は実際に画家としてご活躍されている方で、芸術の世界に漠然とした憧れを抱きつつも、そこに思い切って踏み込めないもどかしさ、不甲斐なさを感じていた当時の私にとって、先生の教室は、その世界を肌身に感じさせてくれる、とても嬉しく、楽しく、大切な機会でした。
以下は、そんな頃に描いた絵の一部です。

雪原。教室に入って、ちゃんと完成させた一番最初の絵です。
イワシのトルネード。何か月もかけて制作しました。

最初に魚部分をすべてマスキングしたうえで背景の海を塗っているので、けっこうな手間がかかっています。
白樺並木。

私が描いた中で、最も新しい水彩画です。それでも2年以上前ですが。

受験が重なってしまったのもありますが、完成までに一年近く費やしてしまいました。

↑絵画教室で描いた水彩画たち。一部ですが、古いものから新しいものへと並べました。
最近はすっかりデジタル作画(注:線画のみアナログ)になっていますが、魂をこめた”かたち”が現実的なものとして残るアナログの絵って、やっぱりいいよなあ、とも思っています。
いろいろなことが落ち着いたら、また描きたいな。
水彩ももちろんだけど、実は、油絵をやってみたいと小学生の頃から密かに思い続けているので、先生にお願いして学んでみようかしら。


ガーベラ。
サクラ。
昼顔。

↑中学3年生の途中まで、以前住んでいた家の斜め向かい前にあった書道教室に通っていました。
ちょっとお金持ちのマダムの、おばあちゃん先生がひとりでやっている教室だったのですが、受講生が大人の奥さんばかりの中、小学一年生で入ってきた私と弟のことを、まるで本当の孫のように、あきれるほどかわいがってくれていました。
月謝は、私と弟の二人で、一人分だけ。
一階の立派な居間に連れて行ってくれて、ジュースやお菓子をごちそうになったり。
学芸会の練習をするために、立派なラジカセをまるごと貸してくれたり。
秘密基地を作るための段ボールや竹をくれたり。なんなら家まで運んでくれたり。
まだ小さくて、用を足したあとにお尻を自分で拭けなかった弟は、先生に拭いてもらったり。
当時通っていた剣道が辛くて辛くて、先生の目の前でわんわん泣いたり。
あずきバーを初めて食べたのも、ハーゲンダッツを初めて食べたのも、先生の家だった気がします。
本当に、いろんなことがあって、それらがすべて、素敵なやわらかさとあたたかさに包まれていました。
けれど、そんな先生は、私が中学3年生になったある日、急に病に倒れ、即入院。
ろくに顔も会わせられないまま、教室は無くなってしまい、それきり先生とも会えなくなってしまいました。
この三枚の花の絵は、入院している先生にと、私が色鉛筆で描いて、手紙とともに送ったものです。
返事はありませんでした。尤も、とても返事ができる状態ではないのだと思います。
もともと高齢の先生だったので、おそらく、もう長くはないのでしょう。あれからずっと、今でも毎日、母に新聞のおくやみ欄を確認してもらっています。入院先もわからないので、それしか、安否を確かめる方法が無いからです。
もしも亡くなられてしまったときには、なんとか、お葬式にだけは絶対に行こうと思います。未だに伝えられずじまいの、8年半分の感謝を伝えに。

元記事投稿日 – 2025.02.27 20:15

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【過去の日記】夢をみる獣 – 2024.11.28 13:38

※数ヶ月前の眠れない夜、衝動的に、ほんの一時間で書いた物語です。私は普段、こういうことばかりを考えていますよ、という文です。もちろんフィクションですが、けっこう現実の私とリンクしていたり。つたない部分はご愛嬌。

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ぼくは何故か、服を着られない。

着たくても、着られない。

頑張って着たつもりになっても、周りからは笑われっぱなし。

つまり、着たつもりになっているだけで、着れていない。

ぼくは、生まれてからずっと、はだかのままだ。

みんなが、ぼくのことを、馬鹿げた存在として扱う。

ぼくがはだかであることが、ひどくおかしいらしい。

あなたは、ぼくを実際に見たら、びっくりするかもしれない。

ばかげたやつだと、まともに取り合ってくれないのかもしれない。

けれど、ぼくは必死だ。

着たくないんじゃない。着られない。

好きでこうしている訳じゃない。

どれだけ無理をしても、着られない。

周りが無理矢理着せようとしても、何故かいつも失敗に終わる。

決して、抵抗している訳でもないのに。

つくづく、自分を、覆い隠せない。

だから、ぼくはずっと、自分を晒して、生きなければならない。

当たり前だけれど、全く周囲に溶け込めない。

どこにいたって、すごく浮いている。目立つ。

色々な人に注目されて、すぐに目をつけられる。

もちろん、嫌で嫌で、たまらない。

注目を集めて、碌なことになるわけがない。

けれど、どうにもできないんだ。

ぼくのこと、変なやつだと思ったでしょう。

ぼくも、そう思う。

ぼくの周りのみんなは、一人残らず、ぼくのことを、きちがいだと嘲笑う。

とても、人間扱いはしてくれない。

けれど、本当に、そうなのかもしれないという考えが、頭をかすめる。

ぼくは、ぼくを人間扱いしないみんなを、決して否定できない。

辛くてたまらない筈なのに、納得してしまう。

やっぱり、変だと思うでしょ?

こんなきちがいの言うことだから、別に、まともに取り合ってくれなくたっていい。

馬鹿な冗談だと、嘲笑ってくれれば、それでいい。

けれど、もしも君が、ぼくの言葉を、そのまま、真摯に受け止めてくれるのだとしたら。

ぼくにとって、それ以上の救いは無い。

ぼくは、考えることが、好きだ。

いろいろなことを、ずっと深くまで追いかけて、決して到達出来ない真理を目指して、無限に突き詰めるのが、大好きだ。

そうでもなければ、ぼくは、もうとっくに、自分に耐えきれなくて死んでいたに違いない。

だって、ぼくは、考えることをやめられないから。

ぼくのもつ思考は、どこまでも強迫的だ。

もはや、呪いの類なのかもしれない。

ずっと考えていないと、ぼくは、自分を保てない。

だから、いつだって、どれだけ追い詰められて余裕が無くたって、考えることだけは、絶対にやめられない。

このことは、ほとんどの人たちには理解できないと思う。

多分、ぼくと同じしくみで動いているごく少数の人にしか、わからないんじゃないだろうか。

だからこそ、ぼくの発する言葉は理解されずに、多くの場合は軽い冗談だと思われて、笑われたり、人を馬鹿にするなと怒られたりする。

お父さんなんか、特に酷い。ぼくが勇気を振り絞ってこういう話をしたとしても、「おまえ、暇なんだな。だらけてるからだ。もっと別のことで頭を一杯にしろ」って一蹴する。

理解してくれないとは言ったけれど、ぼくは、理解してもらうこと、共感してもらうことまで望んでいるわけじゃない。

ぼくは、ぼくの言葉を、冗談だとあしらわずに、真面目に受け止めてほしいだけなんだ。

ただ、そのまま受け止めてくれる、それだけでいいのに。

みんな、ぼくの言うことを、ばかげた戯言だとしか考えてくれないんだ。

決して、見捨てられるようなことはなかったけれど。

それでも、誰一人、まともに取り合ってはくれない。

ぼくは、それが、たまらなく悔しくて、寂しくて、悲しい。

だって、ばかげた戯言だと一蹴される、その言葉こそが、ぼくだから。

ぼくは、みんなから見れば、戯言のようにばかげた存在だということだ。

それが、悲しくないわけがない。

ぼくは、一生懸命に、必死に、生きている。

そこは、みんなと、決して変わらないはずなのに。

そういうわけで、ぼくは、物心のついた時から、自分をないがしろにされている、まともに取り合ってもらえないという悲しさと寂しさにまみれていた。

“あの人なら、この人なら、ぼくのことを受け止めてくれる”という淡い期待を抱いては、何度も裏切られてきた。

そのたびに、胸が張り裂けそうになったけれど。

それでも、以前のぼくは、未だに人間を信じることをやめていなかった。

いつかは、いつかは、誰かひとりだけでも、自分を受け止めてくれると、信じていた。

その頃のぼくは、あまりにも、生きることに苦しんでいた。

純粋で、健気だった。

だからこそ、とてつもなく愚かだった。

あろうことか、ぼくは、自分の生命線である思考を、自ら断ち切ろうとしたんだ。

あの頃のぼくはまだ、わかっていなかった。

自分が、思考を止めると壊れてしまう人間だと。

死ぬまで思考を止められない人間だと。

だから、何かで猛烈に忙しくなって、考えることをすべて頭から締め出してしまおうとした。

荒療治だけれど、そうすれば、辛いことも考えずに済むと思った。

そうして、ぼくは、自分の思考から逃避するために、勉強に依存した。

どれだけ変な人間でも、一番求められていること、つまり勉強さえ出来ていれば大丈夫だと、けなされたり、嘲笑われたりすることは無いと、そう信じていた。

強迫的な思考から逃避するためには、当然、その手段である勉強も強迫的になった。

並の勉強量では到底思考を締め出せなかったぼくは、無意識のうちに、どんどん勉強量を増やしていった。

それだけ、辛い日常について考えることから逃げたくて仕方なかった。

最終的に、ぼくは、睡眠時間を全て削ったばかりではない。

どんな僅かな時間ですら、ひたすらに脳内で勉強の内容を唱えるようになった。

ついには、ベッドに入っても自分が寝ているんだか起きているんだかわからず、何も意識していないはずなのに、勉強の内容が脳裏を飛び交っていた。

あきらかに自我が分離していた。狂っていた。

それでも、自分の中から思考を締め出すのは、到底不可能だった。

当然だ。生きている内に、自分の生命線を締め出せるわけがない。

そんなの、自殺行為だ。

死、まさにそのものだ。

だから、ぼくの勉強も、過労に重なる過労によって、ついに死に到達するかもしれなかった。

今になって思えば、その方がましだったのかもしれない。

そうすれば、完全に自分から逃げ切り、目的を達成したことになったのだから。

けれど、そうはならなかった。

一度目の過労に達した時点で、ぼくは体をひどく壊し、まともに勉強することが出来なくなった。

それ以前とは比べ物にならない地獄に堕ちた。

そうして、ぼくはようやく理解したんだ。

もう、死ぬまで、思考の呪縛からは逃れられないということを。

そして、そんな単純なことにも気づかずに安易な行動をしていた自分が、今の今まで、人間に夢を抱き、どこかで信じていた自分が、目も当てられないほどに愚かであったということを。

ぼくは、急に全てが抜けたように空っぽになった。周囲の人間が何をしようとも、一切反応しなくなった。

両親は、ぼくの勉強を禁止し、精神科に通わせだした。

ぼくが、遂に心を壊したのだと考えたらしい。

確かに、世間から見ればそうなのかもしれない。

けれど、ぼくにとって、むしろこれは、正常な自分への復帰にほかならなかった。

ぼくは、生まれた時から獣だったのだ。

何たることだ。夢に魘されて狂った獣であったのだ。

耐え難い仕打ちを受けながらもなお、人間を信じ、甘い夢の中にあった今までが、狂っていたのだ。

ぼくは、ようやく、夢から覚めた。

夢に生きる力を、人間性を喪失した。

生涯にわたって現を見ることが叶わず、夢の中で踊り続ける、人間だけが持つ愚かさを失った。

それだけのことだ。

けれど、その裏返しも、生きる力も、失った。

人間性を失ったぼくは、人生という、愚かしくも素晴らしい道から凋落してしまった。

ぼくは、もう、人間でも獣でもなくなってしまった。

現の世界に、自我を、夢を持ち込んでしまった。

夢とは、決して現に移し替えてはいけない植物である。現の土に植え替えた途端にその玉虫色の葉は萎び、虹色の花弁は散って、赤黒く醜い肉塊と化す。

そして、その花、はもう二度と咲かなくなる。

ああ、なんということだろう。ぼくは、ぼくの夢を殺してしまった。

もはや空想の中ですら、私が恍惚を抱くことはない。

ぼくは少しずつ自分の夢を潰し、自分自身を殺してきたのだ。

それに気づいた瞬間、生きる気力がすべて削がれてしまった。

もう二度と、生きたいとは思えなくなってしまった。

ぼくは、一体どうして、物心がついた時から、自分が人間だと錯覚していた?

どうして、ぼくはかつて、人間として夢の中に生き、人間として、人間を信じ、愛することが出来てしまっていたんだ?

そんなことは、今となってはどうでもいい。

どちらにしろ、もう、駄目なんだ。

一度、人間として、夢の中に生きてしまったから。

人間が抱く幸せを、その尊さを、知ってしまったから。

もう、現に、ただの獣としては、生きられない。

夢に、ただの人間としても、生きられない。

現に生きる獣でありながら、絶対に手に入らない、人間の幸せを、夢を求めて、生きていく。

地獄。

まさに地獄である。

やはり、今のぼくは、もう人間とは呼べない存在であろう。

人間は、全員が精神病者だ。生まれてから死ぬまで、一生を夢の中に過ごす生き物だ。

ずっと、人間を信じ、それによって幸せを追いかける生き物だ。

幸せだって、人間だけが抱く、夢に過ぎないんだ。

だから、人間を信じなくなった今のぼくは、夢を殺し、現に立った今のぼくは、獣だ。

決して、人間が現に生きることなんて、あり得ないんだ。

現に立ったぼくは、人間を信じることを、やめた。

自分のことを一番に考えてくれている、育ての両親でさえ。

当然だ。人間共が大切に思っているぼくは、全部、ぼくが作り出した嘘なんだから。

誰一人として人間を信じられないぼくは、本当の孤独の中にいる。

あなたはまだ、きっと、知らないだろう。

本当の孤独のおそろしさを。

本当に孤独な存在は、絶対に、幸せになんかなれない。

このことは、ぼくが、一番よく知っている。

もしあなたが、そんなことはない、ひとりでいるのが楽しい、引きこもることが好きだ、自分の為に生きることが幸せだと感じられるのだとしたら、おめでとう。

あなたはまだ、十二分、幸せになれる可能性がある。

人間だからだ。

夢を抱けているからだ。

今の時点でも、少なくとも、ぼくほど不幸ではない。

あなたは、あくまでも、ひとりでいるふりをしているだけだ。

そんな考えが浮かぶ時点で、あなたは、少なからず夢に生きている。

人間を信じて、そこに自分を委ねられている。

本当のひとりぼっちでは、孤独では、決してないよ。

だから、あなたは、大丈夫。

けれど、ぼくは、本当にひとりぼっちだ。

本当に、孤独なんだ。

夢を、人間を愛しながらも夢から締め出され、獣になった。

人間を、一切合切、信じられなくなってしまった。

ぼくは、もう、自分を、誰かに委ねられない。

自分の為にしか、生きられないんだ。

自分しか、生きる理由に出来ないんだ。

何をしても、どこまで走っても、挙げ句の果てに死んだとしても、結局全て、自分の為にしかならない。

あとには、ぼんやりとした虚しさしか残らない。

そんな中、たったひとりで、自分だけを、命がけで守らなければならない。

何があろうと、他人を生きる理由に出来ない。

他人の為に、生きてはゆけない。

だから、幸せを感じられない。

幸せを知りながらも、絶対に、幸せになれない。

これ以上に辛いことを、これ以上の不幸を、地獄を、ぼくは知らない。

もしも、本当に夢から覚めないで、人間のふりをしたままでいられたら、それとも、最初から夢など知らず、ずっとただの獣として生きていられたなら、どんなに良かったことだろう。

人間として物心がついてから、ぼくは、ずっと裏切られ続けてきた。

それでも、誰かを好きになりたかった。

誰かを、たったひとりだけでもいいから、心の底から信じて、ぼくを委ねたかった。

そうして、その人が背負った分だけ、ぼくも、その人を背負いたかった。

自分ではない誰かを、命をかけて守りたかった。

その人と共に在ることを、生きる理由にしたかった。

その人の為に、生きたかった。

幸せに、なりたかった。

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元記事投稿日 – 2024.11.28 13:38 

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【過去の日記】日々のむなしさ – 2024.11.28 14:29

私は悔しいです。麻薬中毒に陥った頭は、霧中で低空飛行を続けているようで、一向に覚醒しようとしません。時折ふっと舞い降りてくるアイディアは、水のようにさらりと流れ落ち、メモ書きすることもままなりません。

悔しい。ああ悔しい。私は、これからも一生、生死のいずれもままならない虚無感の中で溺れ続けるのでしょうか。

元記事投稿日 – 2024.11.28 14:29

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【過去の日記】生きること、死ぬこと、たゆたうこと – 2024.11.28 12:42

登場人物が自ら破滅する物語に、惹かれます。

酷いいじめに遭っていたとか、闇金でどうしようもなくなったとか、戦争ですべてを失ってしまったとか、そういう外部からの影響を多大に受けた破滅については除外です。

特段、なんの不自由もなく暮らしていたのに、そこそこの人生を送っていたのに、ある日突然、衝動的に、自らの足で破滅に向かって駆けていく。自らの手で、すべてを捨ててしまう。誰にも理由を語らぬままに、海の藻屑となって、消えてゆく。

そんな姿を、美しいとさえ感じてしまいます。たぶんものすごく不道徳だし、不謹慎ですが。

そもそも私は、残念ながら、そんなに理性的な人間ではありません。いっときの感情で衝動的に行動する、盲目的な愚か者です。だから、あらゆる事物の善し悪しの判断にいちいち複雑な基準を設けていると、頭がぱあになってしまうのです。

だから、私にとっての善し悪しを判断するための基準は、ただひとつ。

自分にとって美しいか、美しくないか、それだけです。

それを踏まえると、私にとって、自ら破滅を選び取る彼らの姿は、その残酷さは、あまりにも美しい。一度頭に浮かんでくると、もう他のものがすべて頭から追い出されてしまうくらいには、心をひいてやまないものです。

もはや、一直線に破滅に向かうその姿こそが、破滅の恍惚に悶えるその姿こそが、本来の人間の姿に限りなく近い姿なのではないかとさえ感じてしまいます。

それが何故なのか、理由はいくつも思い浮かびますが、その一つは、彼の姿が現実には存在しえない、いや、時のきまぐれで一時的に幻影として映し出されることはあっても、やはり永続的に存在することが決して不可能であるからなのです。

つまり、儚いものだからなのです。

時がつくりだした奇跡であるからなのです。

彼の姿は、虚無のなかにふっと生まれたかりそめの生命、めざすべきどのような正当さももたない欲望、真の人間の姿、そのものなのです。

社会の長い連鎖に未だにつながれない、孤独で自由な眠り、そう、眠りなのです。

眠りだからこそ、目覚める時は、必ずやってくるのです。

生まれるということは、まさに目覚めること。

否応なしに、自分が社会に所属した存在であると認識させられるということなのです。

この世の誰しも、かつては彼と同じようであった筈です。生まれる前、まだ眠っていた時は、生への欲動(つまり、死の欲動)以外の何をも内包しない、純粋な生命、人間、性衝動そのものであった筈です。

そうであったからこそ、純粋に、生きること(死ぬこと)だけをを希求していたからこそ、力を振り絞って、生まれることが出来たのでしょう。

そういうふうに自分を追いかけた結果、かえって自分を偽らないと生きられない社会に目覚めることになるとは、しかも、そんなふうに生の欲動を失うことを「生まれる」と表現するだなんて、人間とは本当に皮肉なものです。

けれど、あの頃の感覚は、頭では忘れていようとも、私たち、この地獄でぼやく幽霊の魂に、その神髄に、今なお染みついているのではないでしょうか。

だからこそ私たちは、何気ない日常生活でも、あるときふと、あの頃と、胎児だった頃と同じものを、二度と繰り返し得ぬ、その一度限りなるものを、再び追い求めたくなるのでしょう。

死の淵にさらされる恐怖を。

その中で純粋に生きる喜びを。

だからこそ、私たちは思うべきでしょう。思想として、選択として、「滅亡」を選ぶことの、むなしい、けれど、輝かしい勇気を。

すべてを捨ててしまうこと、それは、決して支離滅裂な選択ではない筈です。

ただ、あのころの姿を、純粋な生命を、人間の本当の姿を追い求めたいという思想に基づく、至極真っ当な選択、人間そのものの本質を希求する「美」の体系そのものなのだと、思うのです。


以上の文章は、ことしの始め、まだそこそこ学校生活を頑張れていたころに書いたものです。

要するにひそかな破滅願望があったわけですが、その後もそいつの影は薄まることなく、むしろどんどん現実味を帯びていき、私はだんだん、頭の中で自殺をして、その恍惚に悶えるという妄想オナニーを嗜むようになっていきました。

そうして、つい数週間前、ようやっとして衝動的な自殺未遂に陥ってしまったわけであります。向精神薬を飲んでだいぶ安定してきた今になって振り返ると、自分史上最大級の鬱で相当に視野が狭くなっていたし、馬鹿になっていたとは思うのですが、だとしても、そもそもそれ以前に、破滅=自殺という図式がすでに安直で愚かであるよ。破滅だって、考えようによっちゃあもう少しなんかあったでしょ、と自分に言いたいです。けれど、私のチンケな頭じゃ自殺が限界か。ハハハ、、、

つまり、いっときは破滅の恍惚を感じていたいけれど、その後もそれがずっと続くのは不安で恐ろしいんで、一瞬恍惚を感じて次のコマではパッタリ、というわけです。なんたるチキン。

先述の通り、私は愚か者なので。いっとき衝動的に思考の海に潜ることができても、息が続かずにすぐに上がってきてしまうので。この先数十年生きながらえれば、肺活量ももう少しは増えるもんですかねぇ。増えてほしいなぁ。他力本願です。だからお前は愚か者ってんだよ。

話を妄想に戻しますと、私の中でこの世は、無限に広がる荒野の遥か上空にガラス張りの動く歩道があって、みんながそこに載せられているイメージです。何も考えずとも、主体性を持たずとも、なんとなくでずっと過ごしていけるけれど、どこか虚しくて、なにか大きなものが抜け落ちているようで、生きることも死ぬこともままならないような。

それに、ガラス張りですから、眼下にはぽつぽつと、荒野で血を吹き出しながらもがく人々の姿も見えているわけです。彼らは、自らの手でガラスを割って、飛び降りた人たちです。今まさにガラスを割って、飛び降りるさなかの人も見えます。彼らのほうがよほど苦しくみじめだとわかっているはずなのに、そんな彼らにあこがれてしまう。けれど、自分の手でガラスを割る勇気まではないんです。当然だよ。彼らだって、勇気なんかは別に持っていなくて、ただ単に、自分で自分を追い詰めて、あるいは何かに追い詰められて、衝動的にガラスを割って飛び降りただけなんだから。

結局のところ、あらゆることがままならないのです。私はたぶん、そんな無力感に憂いています。

だからどこかで、「こんな空虚なんか、本来の人間の姿じゃない」ひいては、「本来なら、もっと純粋な生命感に満ちているはずだ、人間は、生の欲動そのものであるはずだ!」なんて思いたいんでしょう。なんとも幼稚な妄想です。

それに、生の欲動そのものって、それ、ただの動物と一緒じゃん。人間から理性が消えてしまったら、もはやそれって人間じゃないじゃん。理性があるからこそ、社会は成り立っているんじゃん。確かに、破滅って、ぜんぜん理性的な選択肢じゃないよね、、、。なんて、こんな簡単なことも考えられないくらいには、当時の私は視野が狭かったのです。

とにもかくにも、いつからか、私の妄想の中の「本来の人間」、つまり、生の欲動は、生まれることだけを希求する胎児のイメージと結びついて、「わたしたちはきっと、胎児だったころ、純粋な生の欲動だったころの快感や恍惚を感覚的に覚えている。だから、腹の中から生まれて、理性に目覚め、社会に繋がれて無力感に満ちた今でも、時折そのころの感覚を思い出して、そこに戻りたくなるのだろう」という一連の物語ができあがりました。

今でも私は、妄想オナニーを続けています。言うなれば、コンコンと、割れない程度にガラスを叩いて、かりそめの恍惚に悶えています。すごい馬鹿だなあとは思うけれど、一度始めたらとてもやめられませんよ、こんなの。正直、あまりやめたいとも思えないし。たぶん、一生続くと思います。

私の人生は、オナニーそのものです。書いていて情けないですよ。なんてくだらない、、、。

元記事投稿日 – 2024.11.28 12:42

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【過去の日記】セルロイドと私 – 2024.11.27 21:44

セルロイド。
その響きに、私はひそかなあこがれを抱いている。
最初にセルロイドの名を目にしたのは、おそらく誰もが一度は目にしたことのある、野口雨情が作った例の歌詞だったと思う。

”青い目をしたお人形は アメリカ生まれのセルロイド
日本の港に着いた時 涙を一杯浮かべてた
私は言葉が分からない 迷子になったら何としょう
優しい日本の嬢ちゃんよ 仲良く遊んでやっとくれ
仲良く遊んでやっとくれ”

私は幼いころから、青い目の人形に対する好奇心を抱いていた。
“日米親善の象徴として送られながらも、大戦突入によって「敵国人形」として大半が焼かれたが、「敵国の捕虜だからしかるべく保管をしなければならない」と、国の建前を逆手に取った心ある知恵者のおかげで少数が保存され、現在に至る”という一連の話の大筋は多くの方がご存知のことと思うし、もちろんそこが最も注目されるべき点であることは言うまでもないのだが、私はそれ以前に、この人形そのもののつくりの精巧さに魅了されていたのである。

そもそも当時のわたしは、ぬいぐるみを除く人形全般にただならぬ恐怖を抱いていた。それは、確固たる視線を向けてくるのにもかかわらず中身が空虚であり、そこに何の意味付けもできないことが原因であったと今では思っているのだが、その恐怖心の反面、そんな人形の在り方に畏怖の念を抱いていた。早い話が、自分が絶対に到達できないその境地に憧憬を抱いていたのである。

そんな心境の中で青い目の人形に出会ったので、私の心はまず、日米間にまつわる一連の物語ではなく、人形そのものに引き寄せられた。
青い目の人形は宣教師のシドニー・ギュリックの呼びかけによってアメリカ各地から親善協会に集められたものなので個体差は存在するものの、当時私の見た文献によれば、高さ五十センチ程、黒い髪に白い帽子、目元はぱっちりとしていて、水色の半袖の服にふぁーっとしたスカート、その下にはレース付きの下着を着ていた。極めつけには、横に寝かせると目をつぶり、起こして坐らせると「ママー」と声を出したという。

なるほど、今になって見ても、私が惹かれた理由がわかる。私は、古いながらも精巧なつくりのものには目がないのである。

同時に、”セルロイド”の音の響き、口に出したとき心地よさも相まって、私はすっかり青い目の人形の虜になった。そして、セルロイドが、その確固たる象徴として、私の中に君臨した。

その後、札幌の時計台でそのうちの一体「ファンニー・ピオ」も実際に見た。けれど、依然としてその人形はセルロイド製だと思っていたので、セルロイドサロンのコラムで実際にはビスクドール(二度焼きした素焼きの人形:ビスケットも二度焼きしたという意味がある)であったこと、そもそもシドニー・ギュリックはこの歌を聞いたことがきっかけで日本に人形を贈ろうと思いついたことを知った時にはずいぶんと拍子抜けしたものである。

結局、アメリカから贈られた人形とセルロイドには、何の関係も無いのであった。

だいぶ話が逸れてしまったが、これが、私とセルロイドの出会いであった。その後、青い目の人形に対する念量がだんだんと薄まってもなお、セルロイドは、その軽やかな語感と不思議な外見で、私の心を引き止めている。

最近は、ハンドメイド向けのセルロイドカボションが気になっている。数年離れていたせいで、手芸に対する欲が溜まっている。ヴィンテージDecoさんで販売されていて、水彩のようににじんだ色合いがとてもかわいらしいのだ。

ちなみに、この日記帳(注:現在は閉鎖)で私のプロフィール画像に用いている人形は、以前購入させていただいた、日本で唯一セルロイド人形制作を続けているセルロイド・ドリームさんのセルロイド人形、ミーコちゃんである(ペイントと洋服はメアリーさんによるもの)。

昨今のプラスチックとは少し違う、冷たさがなくさらさらとした、独特の手触りの愛らしいお人形である。気になった方は一度、氏のホームページを覗いてみてはいかがだろうか。


【補足】セルロイド

セルロイドとは、ニトロセルロース(硝化綿)と可塑剤となる樟脳を主原料とする合成樹脂であり、世界初の高分子プラスチックである。1856年にイギリスのアレキサンダー・パークスによって作られたのが始まりであるが、「パークシン」と名付けられたそれは、コストの問題から失敗に終わった。

その後、1870年にアメリカのジョン・ウェズリー・ハイアットがビリヤードボールの原料であった象牙の代替品として実用化に成功し、彼の会社の商標としてセルロイドが登録された。他にもコルセットや義手義足に利用され、その後20世紀の半ばまで、多くの製品に幅広く利用された。

日本では1877年頃に輸入が開始され、1908年には国産化されるようになった。その後、堺セルロイド等8社の合併によって大日本セルロイドが設立されるに至った。

しかし、1955年、アメリカで可燃物質規制法が制定され、日本製のセルロイド玩具等はすべてアメリカに輸出できなくなった。このときに持ち出された火災事故のうちのひとつが、1932年の白木屋大火であるといわれる。セルロイド製品の市場からの排除運動は全世界に広まったため、世界的にセルロイドの製造や消費は落ち込んだ。

最大の欠点である燃えやすさを克服しようと業界では他の可塑剤も研究されたが見つからず、ポリ塩化ビニル等の後発素材に取って代わられた。日本では、1996年以降は生産されていない。


セルロイドについて知りたい方は、セルロイドサロンがとてもおすすめ。>>>セルロイドサロン

元記事投稿日 – 2024.11.27 21:44

カテゴリー: 管理人のとっておき, 過去の日記 | コメントする

【過去の日記】はじめまして。 – 2024.11.27 14:28

こんばんは。北野正宗というものです。
小さい頃からずっと、お絵描きや文字書きが好き、、、
つまり、頭の中でたゆたう、自分の世界を表現することが趣味です。
その輪郭は、時には鮮明にうつったり、はたまたほやりとぼやけたり。時には、闇のとばりに包まれて、何も見えなくなってしまうこともあります。
自分でなんとなくパソコンを触れるようになってからは、だんだんと、インターネットと自分の世界をリンクさせたいと思うようになってきました。
そうして、拙いホームぺージをつくりました。
最初はjimdoやfc2などの無銭サービスにあやかりましたが、やがて自分のサーバーを借りました。
ワードプレスを使う時もあれば、レスポンシブの欠片も無い十数年前のテンプレートを使う時もあれば、自力で1から書いたこともありました。
自分の好きなものたちを素材として描き出して、骨組みだけの空間にペタペタと貼り付けるのはとても楽しい作業でした。
誰も来ないのに、自分の足跡を確かめるためだけにカウンターをつくりました。
自分を慰めるためだけに日記をつけました。
自分が時の流れを感じられるようするためだけに、トップ絵を毎週入れ替えました。
孤独な時間は、ずっとその空間に閉じこもりました。自分のつくりだしたものたちが壁となって、自分という嵐から、弱い自分をかろうじて守ってくれているような気がしていました。
そして、それらの存在が重荷になるたびに、自分の手で消してきました。
自分で、自分という嵐の中に身を投げ出すことを繰り返しました。
このホームぺージは、確か6つ目の空間だった筈です。
もう、あまり覚えていないですが。
お察しのとおり、私は、自分のことが嫌いです。なかなか、自分のことを、自分で受け入れられません。
人間としての器が、烏龍茶のびんの王カンより小さいのです。
つまるところ、自我が強く、わがままなのです。
人生でおこるさまざまを受け入れることは、人間が社会でうまく生きてゆくためのスキルですが、私はなんでか、全然それを持ち合わせておりません。
こんな社会性の無い子供だから、両親も手を焼いています。
今回も、学校生活と寮生活に耐えきれなくなって、家に戻ってきてしまいました。以前は無かった自殺未遂付きで。
一昨年からお世話になっているお医者さまに人生で初めての診断書を書いてもらったので、取り敢えず、あと一ヶ月は休めます。頼めば、もっと延ばすことも、きっとできます。
けれど、そのあとのことは、まだ何もわからぬままです。
今なお、私は、将来が恐ろしいです。不安で不安でたまりません。
それを打ち消すための努力も、今ではままなりません。
だから、これからも、私は逃げ続けるでしょう。
自分が閉じこもるための場所として、ここを発展させてゆくでしょう。
ここを含めて、私の作品は、すべて私の悪あがきです。負け犬の遠吠えです。真実、私の汚物なのです。
もしも、その醜態をご覧になりたい方がいらっしゃるのなら、決して止めません。
良かったら、これからもいらしてくださいね。

↑キリン烏龍茶の王カン。引き出しの奥から引っ張り出してきました。
烏龍茶が一番好きな飲み物かもしれない。ドリンクバーでも、必ず烏龍を飲みます。
このキリン烏龍茶がまだ瓶だったころが懐かしいです。2020年末に終売して、今ではペットボトルになったような。
これは、ちょうど終売になるタイミングで、近所の居酒屋(元寿司屋)さんが譲ってくれたものです。今ではいい思い出。ありがとうございました。

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